昭和39年4月、ついに桐蔭学園は開校しました
入学式当日、登校した生徒や保護者は驚いたはずです
そこに校舎はありませんでした・・・
入学式の会場に用意されたのはテントでした
教室として用意されたのはプレハブの建物でした
校舎が間に合わなかったのです
そこにあったのは
鵜川先生はじめ、開校時のスタッフが共有していた
理想の教育を実現するという情熱だけでした
プレハブ校舎での授業は9月の新校舎完成まで続きました
学校運営は経済的に苦しいものとなりました
柴田氏は各方面に働きかけて資金を集めていましたが
それは高専を作るためのもので
鵜川先生の方にはまわってきませんでした
6月のボーナスを鵜川先生は自分の山手学院の退職金で賄いました
建物は竹中工務店に頼んでありました
こちらは竹中籐右衛門相談役の「鶴の一声」で
出世払いで建ててくれることになりました
入学式当日、登校した生徒や保護者は驚いたはずです
そこに校舎はありませんでした・・・
入学式の会場に用意されたのはテントでした
教室として用意されたのはプレハブの建物でした
校舎が間に合わなかったのです
そこにあったのは
鵜川先生はじめ、開校時のスタッフが共有していた
理想の教育を実現するという情熱だけでした
プレハブ校舎での授業は9月の新校舎完成まで続きました
学校運営は経済的に苦しいものとなりました
柴田氏は各方面に働きかけて資金を集めていましたが
それは高専を作るためのもので
鵜川先生の方にはまわってきませんでした
6月のボーナスを鵜川先生は自分の山手学院の退職金で賄いました
建物は竹中工務店に頼んでありました
こちらは竹中籐右衛門相談役の「鶴の一声」で
出世払いで建ててくれることになりました