無意識日記
宇多田光 word:i_
 



昨日は春分の日だったが、『40代はいろいろ -Live from Metropolis Studios』の2曲は麗らかな春の日にピッタリな曲調だな! 発表になったのは真冬だけれど日本は新年を迎えたときに「迎春」と言うからややこしい。まだ更に寒くなる季節に言うからね。立春が1番寒くなる時期なのは合理的だと思うけども。そんなタイミングだったので元々この2曲は「迎春曲」ではあったのですけども。リリースも立春後だしな。

そう考えると、ダヌパ画伯によるアートワークも春向けというか最早これはお花見の形象化なのでは!?という気すらしてくる。猫カフェ写真で近影が写っていたが、しかし、英国在住なら別に今から新学期とかじゃないわな。

また、ヒカルは今は無縁だが、南半球は逆にこれから冬を迎えるのだから、地球規模の活動をする人は「季節感」といってもどこまで掬い取ればいいかわからない。ヒカルは昔からJ-popの中でも季節感が薄い方として認知されてきたけれど、それがグローバル市場の視点に立った時に強みとなっている、かもしれない。いやまぁ、夏の歌ばかり歌うバンドが海外進出したら「今までライブがオフシーズンだった冬場も南半球にいけば夏だから倍稼げる」とか言い出しそうだけどね。常夏過ぎだろ。

という宇多田ヒカルの楽曲でもこの季節になるとラジオで掛かりやすくなるのが『SAKURAドロップス』だ。ヒカル曰く初夏の歌らしいが、桜が散るのは春真っ只中だったりするので春の歌として歌われても違和感は少ない。秋のドラマ再放送ってのも春と対になってるって連想されるしね。

その後も『桜流し』や『花束を君に』といったフラワーソングがリリースされてきたけれど、まだ『SAKURAドロップス』ほどにはオンエアされていないかな? 『桜流し』は重たい鎮魂歌的な側面が強いので場面を選ぶのはわかるし、『花束を君に』の方も、嫁ぐ場面だったり見送る場面だったりというイメージが結構定着しているのか、そんなに安直な扱われ方をしない。それを言うなら『SAKURAドロップス』もパンチ食らっちゃったりしてるんだけど、どこか「単(失恋が桜が散るのに喩えられてるだけ」みたいに受け取られるのか、この季節でのウケがいい。まぁでも、やっぱり年間6位の大ヒット曲なので、20年以上経った今でもその威光が残ってるってことかねぇ。

流石に『40代はいろいろ -Live from Metropolis Studios』の2曲がこれから春の定番曲みたいに扱われていくとは思ってはないけれど、そもそも『First Love』の方は、アルバムが3月10日、シングルが4月28日の発売で、タイアップ先のドラマ「魔女の条件」も4月からの春クールだったので、紛う方無き「春の歌」の筈なんだ。だけど曲自体に季節感が皆無な為そういうイメージは全くついていない。やっぱ歌詞だけでなくサウンドって大事なんだな。

そんな中で勝手に『First Love (Live 2023)』を春の歌として味わうというのもなかなかに気楽でよい。『君に夢中』もリリース時期の冬のイメージが強かったけれど、この『Rule(君に夢中)』はどこかほのぼのと暖かく、ニューヨークもあんまり冬っぽくなさそうで。お花見散歩をしながらこの2曲を聴くのは実に乙なんじゃないでしょうかね。



……と、多分これを投稿する時間帯は皆さんテレビに釘付け、或いはネットの一級速報の更新連打中だろうから、少しのんびりした話題にしておきました(*^_^*) 後でゆっくり読んでうただければ。選手やスタッフの皆さん無事怪我無く終えて欲しいわね。

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前回は辛辣になったが、言い過ぎとは思わない。あらゆる差別の中でも、相対的・総体的にみて賢愚の別はなかなか広範囲に悪辣だからだ。今までどれだけ「黒人は愚かだから」とか「女子は愚かだから」とかで差別があったかわからない。人を愚者呼ばわりするのは何しろ肌の色も性別も何もなくてもあっても出来るのだからね。しかしそれにしても、教育の機会を悉く奪ってきておきながらそれを言うんだから酷い。これを何世代にもわたって繋げてきたのだから歴史って恐ろしい。故に賢愚の別は愚の骨頂である…だなんて書いたら私も仲間入りしてしまうんだからホント罠だよねぇ。なので真剣に人をバカにするのはやめましょう。

しかし、こういう危うい言説をヒカルがリツイートしたくなるほど現代の分断は甚だしい。英国でも米国でも昨今の国レベルの投票結果は見事に真っ二つになっていて、住んでるヒカルも色々と実感しているのかもしれないね。

最近のヒカルはとても自制的であった。『気分じゃないの(Not In The Mood)』に顕れていたように、現代の格差社会に対して優しさと慈しみの眼差しを持ちながらも至極冷静だった。人によっては冷徹とすら受け取ったかもしれない。しかし、元来のヒカルはとても熱い人なのだ。立場が立場なので皇族並みに表現に気をつけなければいけないだけでな。そんな中リツイートという行為は、発言の跡が残らず、しかし言いたいことは伝わるという上手い手法だったとはいえる。熱さを伝えるのに他人の、しかも誰のだか誤解したものを用いなければならなかったのは歯痒いが、綺麗に諦めるよりガチャガチャと足掻く位の方がカッコいいよね。


ファンとして不満なのは、折角今日が『光』の発売記念日だというのにな、という点。この歌は自分の名前を冠してるのだからどんどん祝えばいいのに…と私などは思うが出来上がった楽曲にはそんなに興味を示さない人でしたね貴女。まぁ新しいマテリアルにかかずらっているせいで過去の曲なんか眼中にあらへんのならそれは最高の朗報なのですが!

『光』といえばその昔─多分『ヒカルの5』の時だな─、ヨイショの金さんが(って無説明で書いてわかる人がどれだけいるやら…?)「最近ファンになった人は『光』が好きだね」と言っていたのが印象に残っている。『光』リリース以前からのヒカルのファンにとって、『光』はあまりピンと来なかったらしい。しかし、『DEEP RIVER』~『ヒカルの5』あたりでファンになった人たちにとっては、直接の切っ掛けが『光』でなくとも大変人気の高い曲であった。つまり、そこらへんで「ファン層の入れ替わり」があったというのが長期的に見た場合の結論ということになるかな。

それくらい、『光』はエポックメイキングな楽曲だったといえるだろう。宇多田ヒカルの新しい時代を創り出した1曲である、と言い換える事も出来るか。以降、様々な曲が同じように「結節点」となって新たな層を開拓してきたが、なんだかんだでいちばんファンを入れ替えたのは未だに『光』なんじゃないかと、古株なおっさんは思うのでありました。まぁそれは多分日本語圏の話で、非日本語圏ではまた別かもしんないし、理由を述べよと言われても難しいんだけど、現象の観察結果としては、ね。今後もそういうのを感じ取りながら聴いていければいいですね。

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おやおや、日本時間早朝からヒカルのリツイートですか。『Kuma Power Hour with Utada Hikaru』の時にお世話になったピーター・バラカン氏の…テキストの画像ツイートを。

「ネルソン・マンデラは言った。“我々の世界は、人種や肌の色、性別や宗教によって分断されるのではない。我々の世界は賢者と愚者に分断される。そして愚者達は自らを、人種や肌の色、性別や宗教によって分断する。”」

…訳すとこんなことが英語で書かれている。早速リプライ欄で「この発言はマンデラ氏のものではない」というツッコミが入っている。バラカン氏が自ら「これをどこで見つけたか忘れましたが、共有することに意義があると思います。」と述べているのでそのツッコミが妥当な気もするがその妥当性の如何に関わらずそもそもこんな出自のわからない一文を画像にしてツイートする事自体、有名人としては非常識だ(約七万フォロワーはそこそこ有名人だろう)。それに氏は文筆業もしているのではないの? 自分の発言が他の誰かのものとして扱われて拡散されて自分の評判が落ちたときに「自分もしてることだから」って言えるのかな。言えるんならいいんだけど。私はよくないぞ。

内容をシェアする事が大事だと思ったのならマンデラ氏の名前は削ればいいだろう。バラカン氏が「これは私の文章ではないが文意には同意する」と明言すれば済む話。無断引用に関しては氏が責任を負えばいい。これはそれでいいわ。

で、こういう有名人としてはマナーのないツイートが流れてきても普段の私なら一瞬でスルーするところだがこれヒカルさんのリツイートなのよね。何やってんのというのが紛う方無き本音なんだけど、このタイミングでどうしても何か言いたくて丁度このツイートが目に止まったのかな(バラカン氏は数少ないヒカルがフォローしてるアカウントのうちの一人だ)。えらい前のめりだと思うけど、今回は仕方がないか。今日はイラク戦争開戦から20年の日だからね。あの時の怒りが甦ったのだろう、というのが私の推測だ。

この引用文、言ってることは納得がいくが、自らが世界を賢者と愚者に分断しているのだから、これを述べた人は愚者なのだろう。そう自分で言っているのだから。wise or fool はblack or whiteやboys and girlsとは訳(わけ)が違うが、この文が分断を促進していると言われて反論するのは難しいのではないか。まぁそれはそれとして、真実を突いてるとは私も思う。だが、必要な真実を突くために賢者と愚者を持ち出す必要はないかな。ただ「世界は人種などで分断されているのではない。分断しようとする人が居るからそうなってるだけだ。」で十分だろう。分断を利用して利得を得る人間には非常に頭の回転の速い人間も居る。いや分断の手法を持ち出す時点で愚かだというのなら、その「愚か」ってwiseとfoolで分けられるヤツなのか、甚だ疑問だ。とはいえ私も、多分そういう「狡猾だけど破壊的な人間」をみたら「愚かだねぇ」と思うだろうけどね。ただ、面と向かって言う気はおこらない。「バカって言った方がバカ」の一言がアタをよぎっちゃうからね。

…まぁそんな無駄話はいいや。ヒカルさんが久々にエモーショナルな動きを見せたので、それはちょびっと嬉しかったな。最近のパイセンは完璧だったのでね。まぁ、そういう日もあるさね。

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前回日和ったので今回は攻めるか。

さっきツイッタートレンドに「近親相姦」という4文字熟語が入ってた。百合ばかり検索する私へのパーソナライズかな?と一瞬思ったけど件数からするとホントにトレンドになってたのかな。

ヒカルさんはアルバム『初恋』発売時のインタビューで、要約すると「恋愛感情も親との関係性から生まれる」という趣旨の発言をしていた。つまりここを誤解すると近親相姦的な関係なのか!?と色めき立つ所なんだが論点はあクマで感情形成上の由来の話であって、例えば両親の仲睦まじい姿をみて恋愛とはこういうものかと学ぶ、とかでも構わない訳だ。勿論、近親相姦でも構わないんだけど。

性的少数者に対する理解は日に日に深まっているように感じるが(無理解との分断の溝はそれよりも遙かに甚だしく深まっているようにも思えるが)、これが近親相姦の話まで出てくると拒否反応はかなりのものになるだろう。しかし、トレンドでも取り上げられていたのだろうが、ギリシャ神話もローマ神話も旧約聖書も新約聖書も近親相姦満載で、歴史と文化を学ぶ時には避けて通れないテーマである。それと同時に、今現在不快感を感じるならそれについても正直であればいい。同性愛者の中には異性愛なんて気持ち悪くて直視できない、という人もいるだろうけどそういう気持ちもまた尊重されるべきでね。それを公言して誰かを侮辱しない限りは、ね。

ヒカルが歌詞で切り込んだのは精神構造そのものとその形成過程についてであって、近親相姦という単語が踊るときの肉体関係について特に語られている訳ではない。だが、なんらかの真理は突いているのだ。

少し違う角度から話をすれば、『真夏の通り雨』の歌詞だ。リリース時にここで書いたことだけど、『Fantome』収録曲の歌詞の二大テーマは「性」と「死」であり、『真夏の通り雨』はその「ひとつの歌詞」で、性と死それぞれのテーマについて歌ったとんでもなくアクロバティックな作詞をもつ。だがこれを逆からみれば、喪失と恋愛に対する感情の精神的形成過程は幾らか共通していて、それをヒカルは掬い取って概形化したのだということも出来る。

これと似たようなことを『初恋』でも成し遂げたとみるのが自然なのではないかな。恋愛感情の生成過程をみつめる事で「初恋の瞬間」の必然性を見極めるにはまず親との感情的な関係性から始めなければならなかったと結論づけた。別に直接親に恋する事が必要な訳じゃない。勿論親への恋心でもいいんだがアゲイン。

裏を返せば、精神的な近親相姦関係を実地に持っている現実の人たちは、そういった感情生成過程についての理解が人より深いのかもしれない。そんな風にも思うのだが、流石にまだLGBTQにも慣れていない段階でその話をし過ぎるのも気が早いか。

ヒカルは、タブーも含め総てに踏み込んで作詞をしている。前回取り上げた『あなた』でもそうなのだが、しかし、それをポップ・ミュージックに乗せる時には本来アウトな表現をセーフな所にまで持ってきて落とし込む作業をちゃんとしてくれている為我々は気まずい思いに惑わされることなく歌を楽しむ事が出来るのだ。いや勿論、楽しめるなんて気軽な感じではなく本気で重々しく感動して救われたという人も多かろうが、気まずさに煩わされないからそうやって素直に重く見る事が出来るのよね。気まずさには敵わないのよ。今私も結構綱渡りしてるけど、難しいわこれは!

ということで、世情が進めばヒカルの歌詞も更にもっと踏み込んでいくのだろうが、それは世間についていった結果ではなくて、小さな頃から作詞家宇多田ヒカルは自身のクリティカルな部分を受け容れて貰える状況になるまで待ち続けているのだ、きっと。つまり、既にもうヒカルは未来を生きている。というか、生きてきて戻ってきたからデビュー曲のタイトルが『time will tell』、『時間がたてばわかる』なんだな。歌詞が気まずく響かない時代まで待機している感情がやまほどあるのだから、ヒカルの作詞にネタ切れなんて永遠にやってこないだろうよ。だからヒカルさん、ずっと歌を作り続けてくださいね♪

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そっか、間もなくイラク戦争開戦20年か。当時ヒカルがメッセでそれまでにないほど怒り狂っていたのを思い出す。よくあんな立場でその発言が出来るなと胆力の強さに慄いたものだが、なるほどその後の国際政治の歴史をみるに…という程詳しくないのだけど、「あの開戦は間違いだった」という評価がすっかり定着してしまった事を考えるとヒカルの怒りはごもっともの極致だったのだなと改めて合点する。極論すればどの開戦も間違いなんだけどね。

今のヒカルは流石にそういった発言は控えるようになった。インターネットにアクセスする人数が違い過ぎる。20年前はまだまだパソコンとガラケー(当時まだこの呼称はなかったか?)が主体で、Web上で発言する人は積極的な層だった。今やふらりと外食してもスマホがないと注文1つ出来ないみたいな、ネット接続が義務かした社会になっていて、消極的な多数派が有名人の発言を見ているのが現実だ。この状況では幾ら妥当な発言をしてもどう曲解されて歴史に名を残すことになるのかわかったものではないので、政治的な発言は極力控え、する時も慎重に慎重を期するようになった。これも環境適応変化の一環ね。

その割に『あなた』では『戦争の始まりを知らせる放送もアクティヴィストの足音も』などという直接的な表現を使ってくるなど、意識の低下どころか歌の歌詞にしてしまうほど今でも腹が据わっているのもまた事実。オフレコでいいなら言いたいことやまほどあるんだろうなと。親しい友人と飲んでたら朝までそんな談義をしたり…息子が家で待ってるのに朝帰りはしないか。

ウクライナへのロシア侵攻が本格的に始まってもう間もなく13ヶ月。どの戦争が報道されるかというのは日本語圏では「西側の都合」が大きくて、極東の国なのに大変なことではあるのだが、その都合に引っ掛からないアフリカ大陸での様々な紛争などは、そもそも余り報道されないから我々は存在自体知らなかったりする。世界のあらゆる国と深く貿易と交流を行うようになれば報道も変わるのだろうけど、非民主的国家との付き合いは注意が必要ってのはこの20年で痛感する人も多いだろう。

そんな中で音楽というのは国境を越えて伝わっていく。ストリーミング・サービスのお陰で宇多田ヒカルの歌が様々な国で聴かれていることを知り、聴かれていることを知ってその国の名前を初めて知るなんことまで有り得てる。今はすっかり翻訳機能も定着して、各国語に翻訳されたリリックビデオなども放流されるから、様々な思想を持つ国々でヒカルの歌詞が味わわれていくことだろう。J-pop市場では非宗教的、非政治的な歌詞が好まれるが、200を数える国と地域を相手にするとなるとはたしてどんな歌詞がこれから顕れるのやら。イタリア語圏やスペイン語圏のリスナーのリアクションがこれから増えるのかしらん。

…ふむ、踏み込んだ話をしてややこしいことになりたくないと思ったのか当たり障りのない話に終始しちゃったな今回の私は。ま、そんな朝もあるって事で。

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散々『Rule(君に夢中)』から

『The second guessing I do is not doing me any good』

の一節を引用してきたが、これは1番での歌詞。同じ箇所が2番では

『The second guessing you do is not doing you any good』

になっていてちょっと違う。『I/me』の所が『you/you』になっているのだ。従って1番の歌詞は

『くよくよしてたっていいことなんてないわ』

と自分自身に言い聞かせているのに対して2番の歌詞では

『くよくよしてたっていいことなんてないよ?』

と『you』=『君』に諭す口調になっている。youという単語はoneに置き換える事も出来て一般論を語らせる事も出来る。その場合でも諭す口調になるのは同じだ。

ヒカルの書く歌詞に於いては、素直に『you』=『君』と捉えていいかはわからない。というのも、1番と2番で視点が変わることがあるからだ。代表的なのが『Simple And Clean』で、1番は結婚に積極的な女の子、2番は結婚に及び腰な男の子の視点でそれぞれ綴られていたりする。

ではこの『Rule(君に夢中)』ではどうなのか。視点は入れ替わっているのかいないのか。

そのヒントになるのが2番のここの歌詞だ。

『It just takes time to see the truth』

1番ではここにあたる歌詞がない。そもそも何も歌っていないのよねヒカルさん。なので、この一文は『you/you』に固有の意味を持つメッセージだ。訳すと

「真実を知るには時間がかかる」

となる。justを強調するなら

「真実を知るには時間がかかるってだけさ。」

みたいになるかな。結構唐突なんだけど、でも、この後にこの歌詞が出てくるんだよね。

『知れば知るほど遠のく真実を
 追いかける最中に私が私を欺く』

ここの前半を取り出して

「真実は知れば知るほど遠のくものさ」

みたいな風に書き直せば、『It just takes time to see the truth』の対訳にかなり近いニュアンスになる。となると、そのあとに『私が私を欺く』とあるのだから、この段落は「君に夢中な私」の話だ。直前に『好きすぎてどうにかなる』とも歌っているしね。

てこたーだ。

『The second guessing you do is not doing you any good』

の『you』は『君に夢中』の『君』や『I let you rule』の『you』ではないのよ。私が夢中で好きすぎてどうにかなりそうな『君』は『you rule』、君しか勝たん、最高に輝いてるんだからくよくよなんてしてないんすわ。

なのでここの『you』は『私』の事を指していて。となるとその話者は『私』でも『君』でもない第三者で。

それに対して、くよくよあれやこれやと考えている『私』を肯定するために、『いや、私があれこれ考えてるのは真実を知るためなのよ。だからこんなに時間を掛けてるの。』と(と多分心の中だけで)言い返してるのが『It just takes time to see the truth』の一文、なのだろう。でも結局、自分でも「くよくよしててもいいことなんてない」とわかってはいるのだ、1番にある通り。そこを誤魔化してるだなんて確かに『私が私を欺』いているわね、真実を知ろうとする中で。実際歌は1番も2番も同じ『The constant texting ...』へと続いていく。結論は同じ「こっちに来て私を止めて」になるんですね…


……と、いう今回の解釈はひとつの可能性に過ぎない。どこの視点からの歌詞なのかは、歌を聴いたひとりひとりが感じたことを大切にしてほしい。その中で、どれがヒカルの意図した解釈なのだろうか? ──その本当の真実を知る為には、きっと時間が掛かるのさ。It just takes time to see the truth about Utada Hikaru、なんですよ。…… お後が宜しいようで?

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へぇ、「新堂本兄弟」出演から15年か。懐かしい。
https://twitter.com/hikkicom/status/1636122600412700672


この時期はヒカルが最も精神的に荒れ狂っていた時期で…というのはトークを聴いて貰えればわかるかな。端的に言って病んでいる。本人も自覚していたようで、自分のことを『行き先不明の暴走トレイン』と称していた。決まった線路の上しか走れない列車の行き先が不明って相当な暴走振りなんですよ。

ただ、5作目のアルバム『HEART STATION』の出来栄えを顧みると、いやこれ一人の人間がたった2年で作れるクォリティじゃないよね。人間性の大事な部分まで削り込んでしまったというのは逆に納得感がある。『テイク5』の最後の一節、『今日という日を素直に生きたい』が生まれたときにヒカルが「なんだ、私、生きたいんじゃん」と気づいたというのは有名な話だが(…そう?)、そうやって歌に教えて貰うまで自分の生物としての生への欲望を認識できないほど壊れていた、或いは厭世的だったというのを象徴するエピソードでもある。確かに、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」のラストに通じるものがあるな。次にこの作品を映画化するときには是非『テイク5』を採用して欲しい。なんだったら「銀河鉄道999」にも『テイク5』が合う、という意見を伺って私も確かにリメイクするならこれエンディングで流されたら堪らんなとなったわ。

今は更に凄まじい8作目のアルバム『BADモード』を作り上げても壊れた風ではなかった。それだけ丈夫になった、或いは母親になったのだから『くよくよしてる場合じゃない』と開き直れてる、のか。例えばアルバム発売時のインスタライブをみても穏やかで優しく元気そうだった。

しかしそれで創造に関する心身への負担が軽くなっているのかというと恐らくそんなことは全くなくって。『Hikaru Utada Live Sessions from Air Studios 2022』収録時に直前まで声が出ず日常生活を筆談で送るまでになっていたのはメイキングを御覧になった皆さんなら御存知だろう。うらぶれていた15年前と、創造の負担は変わらない。どころか増している。歌手が声を失うだなんて、9歳の頃東京駅で迷子になった時以上の絶望を感じたのではなかろうか。(迷子エピソードはその「新堂本兄弟」で語られています)

こうやって、大人になるというのは、傷つかなくなる、鈍感になるというのとは違い、傷ついても立て直す術を、何事もなく日々のよしなしごとをこなせる方法を身につけることなのだなと納得させられると、17歳の時に歌った『タイム・リミット』の『傷つき易いままオトナになったっていいじゃないか』という一節が殊更しみじみと思い出される。目の輝きが失われていないどころか、若い頃より更に綺麗になっているのをみて、寧ろ自分を守る、立て直す術を身につけたことでこどもの頃以上に神経と精神をより繊細に研ぎ澄ますことに躊躇しなくなったかもしれない。そして今現在進行形で目の前にこども時代を送る人が居て毎日それをよくみることが出来ている。


なんだろうな、そういった現況を端的に表したのが昨日のエピソードだったんじゃないか。


『ミケランジェロ過ぎワロタ 
遅刻しそうでミゾレが降る中でもこんな写真撮る母親に付き合ってくれる息子…』
https://twitter.com/utadahikaru/status/1635594601829466115

『割とテイク8くらい』
https://twitter.com/utadahikaru/status/1635605797945380864


ミケランジェロの「アダムの創造」に擬えて道に落ちてる手袋を撮影する母ヒカル。どうやら動画の方は一旦戻ってきて撮影したらしい。道の濡れ具合から推察できると。特定班ますます磨きがかかってるな…。

「なにやってんの、こんなのどっがこどもかわからないじゃない」だなんて皆から思われてるのだろうけど、そうなのよ、ヒカルさんは「傷つき易いままオトナになった」ので、こどもの頃の感性とサヨナラした訳じゃない。局面々々でこどもの顔を見せてくれる。それでいて『BADモード』のようなとんでもない作品を8作目に作り上げるのだから見上げたもんどころの話じゃないよねぇ。総ては繋がってるんですな。テイク5からテイク8へ、5作目から8作目へと、ね。

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前回『Rule(君に夢中)』の『The second guessing I do is not doing me any good』を「くよくよしててもいいことなんかない」と訳した。さてその次の歌詞を見てみるとこちらになる。

『The constant texting we do is making me really rude』

前にも取り上げた一節ですね。こちらは文字歌詞のバージョンで『we do』になってる方。

この2文が対応関係にあることは見ればわかる。というか、こうやって字で見た方が音で聴くよりわかりやすい。

『The second guessing』↔『The constant texting 』
『I do』↔『we do』
『is not doing me』↔『is making me』
『not any good』↔『really rude』

という風に見事に対になっていますね。

前回ココを取り上げたとき指摘していなかった点。恐らく最初は、『I do』↔『we do』という対応関係の為に『we do』を採用していて歌詞カード用にもそう書いたのだろう。だが実地に歌う段までに『with you』に変更した、ということになるかな。なぜ『with you』にしたかの話は今回は省きますが。

で。斯様にキレイな対応関係なら訳し方も対応させたいところ。だけどいいのが思い付かなかったので暫定案だけ書いとく。

「くよくよしててもいいことない
 やりとりだけではらちがあかない」

尺はいいとして、「ヒカルの歌詞らしさ」が足りないのよね。またいい案が浮かんだらその時に。


なお、ここの『rude』の訳し方が結構難しい。本来無礼とか粗雑とかいう意味なんだが、テキストやりとりしてて無礼って、今時そんなこと言う?とか疑問を持ち始めるとわからなくなる。恐らくここはあまり厳密に考えず、広い意味でネガティブな響きの言葉ならそれでよしと捉えるべきかと。

というのもここの『rude』は、上記のように『good』との対比となっているからだ。「よい」に対して「わるい」の意味が入ればそれでいいのだ。が、ではなぜアルバムタイトルにも入っていて尺的にも問題がない“bad”を使わなかったのかという疑問が湧く。その理由は、曲タイトルの『Rule』と韻を揃える為だ。それによって、

『me really rude』



『you rule』

もまた対比される。「私は無様なもんだけど、あなたは輝いているわねぇ」という対比を意味上でも音韻上でも表現するために、“bad”ではなく『rude』を使ったのだろう。もっといえば、

『any good』
『really ○○○』
『I let you rule』

の3つで音韻を揃えたかったが故に真ん中の「○○○」の部分には『rude』が採用されたのではないかな。2つの箇所の音韻だけでなく3箇所で韻を踏んで意味上でも対比させてというまぁややこしい動機による単語の選び方。やっぱり作詞家宇多田ヒカルの持ってる技巧は複雑怪奇だわね。

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『Rule(君に夢中)』に

『The second guessing I do is not doing me any good』

という一節がある。直訳すると

「私のする二番目の推測は私に何もいいことをしない」

となって、意味がわかるやらわからないやら。グーグル先生に訊くと

「二度目の推測は私に何の役にも立たない」

という感じでまぁ五十歩百歩。ところがDeepL先生は

「二の足を踏んでいるようではダメなんだ。」

とかなり踏み込んだ訳を投げ返してきた。踏んでるだけに。やかましいわ(笑)。

ともかくこれならわかりやすい。「The second guessing」は「二の足を踏む」だと覚えておけば結構問題ないだろう。

ただ、このままだとヒカルの歌詞っぽくない。ので、今までのヒカルの歌詞に沿って訳し方を考える。

「The second guessing」は「二回も同じ事を考えてしまう」という意味なので、躊躇ってたり思考が堂々巡りしてしまったりという状態を指す。「ああだこうだと考える」なんて訳し方もあるね。目標に向かう実感なく悩んじゃうことを言うのだろう。考えても仕方ないじゃない、と自分に言い聞かせたい時…となると、『あなた』のこの一節が思い出される。

『一日の終わりに撫で下ろす
 この胸を頼りにしてる人がいる
 くよくよなんてしてる場合じゃない』

そう、これよね、「くよくよする」。「いつまでも気に掛けて思い悩むさま」。なるほど、これなら日常的で、文字数が少なく、響きも面白くて如何にもヒカルが歌詞に使いそう。他にも『Fight The Blues』に

『くよくよしてちゃ敵が喜ぶ』

なんてのがありましたっけかね。ということでこの『Rule(君に夢中)』の

『The second guessing I do is not doing me any good』

の部分の対訳は

「くよくよしててもいいことなんてない」

に決定。如何にもヒカルが歌いそうなフレーズに仕上がりました。これで意味も通りやすくなるだろう…という話は前後の歌詞を踏まえてまた次回、かな?

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くぅぅ、こんなタイミングで親子の仲良しぶりを見せつける写真&動画を投稿してくるだなんてヒカルママめぇ…とっても、ぐっちょぶです…。

そういやダヌくんはこうやってヒカルと暮らしている訳だけど、名字って何を名乗ってるんだろね? いや非・有名人のプライベートの話なんて基本ほっときゃいいんだけど、宇多田姓はカッコいいと思うので名乗りたいなら名乗ればいいんじゃないかなって。例えば「宇多田照實」とかってメチャメチャかっこ良くない? よく戦国武将みたいだなんて言われるけど、凄い字面になるのよね宇多田姓って。第59代天皇に宇多天皇ってのがいらして止ん事無き響きがあるのも強い。

それに、英語圏でも多分いい響きなんだろうね。昔全米デビューしたときに名字のみの『UTADA』名義にしてたくらいなので。まぁこれそのまま読むと、ユタ州の“State of Utah”に倣って「ユターダ」になっちゃうんだけども。ウタダって読んで貰う為にはたぶん“Wutada”とか“Wootada”とかにしないとなんだわ。まぁでも本人も「SONYやHONDAみたいに」「マドンナやスティングやプリンスみたいに」という意図だったのだから、シンボルとしても結構カッコいいのだろう英語圏でも。

前回の日記で『This Is The One』をゴリ押すにあたって名義に拘らなかった。『BADモード』という初のバイリンガル・アルバムを制作した今、もう日本語や英語の区別もないのだし、名義の区別もないだろう、と。サブスクで検索しても宇多田とUTADAを区別してくんないしね。一応名義は別れてるけど一緒に出てくるからね。

これがCubic Uまでいくと本名と掛け離れてるしcubic Uって小文字で書くと照實圭子光3人のユニットの名前になるしで表記も含めて気をつけないといけないのがまた難しいとこで。Uの3乗、U3ってのはまたU2のパロディみたいなもんでな。とかって言ってる間にボノの息子もメジャーデビューしてすっかりミュージシャン親子になっててなぁ…ってそれはまるで関係ないのだけど。

なのでCubic UとUTADAで事情は違う。何より、UTADA名義の曲って今後ライブで歌う可能性ありそうだもんな。Cubic Uはちょっとなさそうじゃない? 今後日本以外でのコンサートで『光』ではなく『Simple And Clean』を、『Passion』ではなく『Sanctuary』を、『誓い』ではなく『Don't Think Twice』を、それぞれキングダムハーツファンの為に歌うとなるとね。…いやこれ全部名義バラバラやんか…。

そういえば、日本でも『Easy Breezy』は大ヒットしたし、これを歌っても結構盛り上がる気がする。そうなのよ、この曲まだライブで歌われたことないのよね! 今思い返すと不思議で仕方がないな。

それに、一昨年演奏(して昨年リリース)された『Hotel Lobby』と『About Me』もUTADA名義だもんね。ヒカル自身も、そんなにシリアスに名義違いについて考えて居らず、今後は全シャッフルで行く気だろうて。

確かに、こちらはいちリスナーとしてUTADA期には非常に思い入れがある。『Utada In The Flesh 2010』公演は一生の思い出だしね。表記はUTADAなのかUtadaなのかUtaDAなのかという細かいとこにもホントは拘りたいくらい。なのだけど、それはもう過去の話なので、ヒカルが気にしないというのなら気にしないわ。もしダヌくんが将来ミュージシャンになったら、そしてヒカルと共演することになったら、またそんときに、今度は“ファミリー”・ネームとしてUTADA名義を復活させてくれたらいいよ。だって今度U3と同じ名前の付け方をしようとしたらマジで「U2」になっちゃうんだからね!(笑) 音楽家一家の名字、今後どうなっていくのかしらん。

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今日はアルバム『This Is The One』の日本盤CD発売記念日。アルバム『BADモード』によって『EXODUS』が(極一部で)再評価されてたっぽいが、次の再評価はこの作品だろうかな。

とにかく不遇な作品だ。『EXODUS』は「宇多田ヒカルの全米進出失敗」の象徴としてよく取り上げられるが、こちらはもう単に存在が無視されている。何故ならその「全米進出失敗」というストーリーを描く際に非常に都合が悪いから。

チャート成績としてはiTunesUSAで総合チャート18位、ポップチャートで2位。まだCDが主体だったビルボードTop200ではデジタルリリースの2ヶ月後のCD発売で69位だった(アメリカの話ね)。この順位の意義が日本では伝わらない。全米の市場規模は日本の3倍以上あるんだから日本の69位とは意味が違う。このとき比較になったのは日本産ハードロックバンドLOUDNESSの全米64位だが、欧米のハードロックファンにLOUDNESSの全米進出が失敗だったと主張したら不思議な顔をされるだろう。ギタリストの高崎晃は今でもギターヒーローの一人として日本以外でも認知されているし、LOUDNESSは欧州メタルフェスの常連だ。全米64位というのは普通に認知されるレベルのまずまずの成功と捉えられている。勿論80年代当時の日本にとっては“異例の大成功”だった。時代は違うとはいえ『This Is The One』も似たような順位だったのだ。

これが非常に都合が悪い。全米進出失敗と叩くのは無理があるし、かといって大成功かというとそれも違う。書き手にとっては非常に扱いづらい作品なのだ。ストーリーを作れない。よって「なかったこと」にするのがいちばんやりやすい。故にこの作品は発売時期以外は全く音楽メディアで取り上げられることがなかった。

そんなジャーナリストや音楽ライターの都合に翻弄されることは、14年経った今はもうないだろう。今後は普通にその作品性と楽曲のよさで評価されていってくれれば嬉しい。

ただ、もう片方の事情も足を引っ張る。ヒカルの思い入れが他の作品と較べて相対的に薄い点だ。単純に、スターゲイトやトリッキー・スチュワートといった共同プロデュース陣にサウンドメイクを任せた割合が大きいことと、書籍『点』『線』の編集も同時並行していたので余りにも忙しすぎたのも大きかった。お陰でヒカルもまたこの作品についてプロモーション時期以外で語ったことは皆無。どこまで自分の手で作り込めるかを追究した『EXODUS』とは作品としての立ち位置が異なるのだ。

だがそれでもこれだけフックのある楽曲をズラリと並べられたのは流石の一言。特に『Apple And Cinnamon』は、宇多田ヒカルでは滅多に見られない「同じ歌詞をセクション丸ごと何度も繰り返す」ようなある種“手抜き”と捉えられかねない構成ながらメロディのミラキュラスな運び方は『光』などに全く劣らない。この曲を知らずに宇多田ヒカルライフを送ってきた人は人生損してましたね心から後悔して下さい。(<手酷いな!)

何より、バックトラックを共働者に任せたのでヒカルがヴォーカルに注力してるのがデカい。『DEEP RIVER』から『Single Collection Vol.2』を挟んで『BADモード』に到るまでバックトラックに宇多田ヒカル印の刻印を刻みまくってきた中で、ここまでヴォーカル重視な作風は異例中の異例。「歌モノが好き」という人にとって最高傑作は『This Is The One』だとなっても全く不自然ではない。

惜しむらくは時間の無い中で制作した事で1曲1曲が短く曲数も少ないのが物足りない…という見方も出来るが、私が常々主張してきたように30分余りでフルアルバムの構成力を堪能できるのは『Single Collection Vol.2』とこの『This Is The One』になるだろう。『Somewhere Near Marseilles ーマルセイユ辺りー』3回リピート分の再生時間と言えばその短さがわかるはず…ってあれこの喩え「長ぇじゃん!」って印象になっちゃう?逆効果??


ともあれともあれ。まだこのアルバムを聴いたことのない人や、最近全然聴いてなかったなという人は折角の発売記念日なので聴いてみる事をオススメする。36分程度で本編終わるから忙しい平日でも聴きやすいよ! 26歳のヒカルの艶っぽい歌声を心ゆくまでご堪能あれ。

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『Rule(君に夢中)』の英語歌詞によって、逆輸入というのでもないけれど、日本語で歌われる『君に夢中』の歌詞の解釈を微妙に修正する事になった箇所がある。


『君に夢中』の

『Ah まるで終わらない deja vu』

の部分、私はここを

「君に夢中な“私”の状態」≒「終わらないdeja vu(=既視感)」

だと解釈していた。だけど『Rule』の英語歌詞では

『You're like a never ending deja vu』

と歌っている。

「君はまるで終わらないデシャヴだね」

ってこったね。君そのものが既視感だったのか。あんまり意味は変わらないけど私の中では微妙に違ったわ。


そもそも、「終わらない既視感」って何なのか? 既視感自体は(goo辞書によると)「一度も見たことがないのに、すでにどこかで見たことがあるように感じられること。」なのだと。これを適用すれば、

「私は君とは一度も会ったことがない筈なのに既にどこかで会っていたような気がする」

ってのが、人と人の間での既視感てことになる。これが終わらないってどういうことなの?

少し砕けた解釈をするなら、こんな感じになるかな。

人に既視感を感じるのは、例えば自分の中に眠っている「理想の恋人像」に非常に近い相手が見つかった場合などになるのかもしれない。従って、理想的な人物が目の前に現れた時に今までずっと心の中で形作られていた理想像が“想起”されて、まるで人と会った記憶の中から呼び覚まされたような感覚に陥るのではないか、そういう瞬間に人は人に既視感を感じるのではないだろうか。

そしてその「感覚」が終わらないというのは、その人をどこまで知っていっても私の理想通りで、裏切られる事がなく、その為際限なく夢中になっていってしまう状態をいうのではないか。そんな壊れ具合だから直後に『バカになるほど』と歌うんじゃないか、そう解釈をしてたんだけども。

『君』自体が「まるで既視感みたい」っていうのはそれよりもっと強い意味になる気がする。もう、私の感覚をまるごと乗っ取られてるような、そんな大胆さを感じるわ。

と、いう感じで、なかなか解釈が難しいけれど、この

『You're like a never ending deja vu』
『Ah まるで終わらないdeja vu』

のそれぞれの一節は、この曲の中で最もキーセンテンスとなる歌詞である事はほぼ間違いないかと思われる。互いに直訳になっている歌詞がここ1箇所だからね。近い意味の歌詞はあるけど、ここは言葉の響きも意味も含めてこうでなければならない場所なのだろう。


そして更に妄想を逞しくすると。もしかしてここのフレーズって、ヒカルが最初に「口をついて出た言葉」なんじゃないかなという気がしている。ふとある時に『You're like a never ending deja vu~♪』と無意識に口遊んでこの曲の制作が始まったのではないか? だからやたらと語呂はいいけど深く意味を考え始めるとよくわからないのではないだろうか。こういう、“予感”が強い取っ掛かりから創作が始まる事はよくある。浦沢直樹がInvitation対談で「まず1枚の絵が思い浮かぶ。そこに辿り着く為に物語を描く。」旨語っていた。最初に思い浮かんだ絵は、果たしてどういう意味を持つのか、描いた本人もわからない所から始まるのだ。ヒカルも、『君に夢中』を、この『You're like a never ending deja vu』から書き始めたんじゃないかと、密かに勘繰っている。だから謎めいた意味と鮮烈な響きが同居しているのではないかな。真相は夢の中、かもしれませんけどね?


なお、追伸になるが、日本語の「まるで」という副詞には「あたかも/さながら」という意味と、「すっかり/まったく」という意味と、2つの異なる意味があるので、

『まるで終わらないdeja vu』

には

「(君は)さながら“終わらない既視感”のようだ」

という解釈と

「(それは)“まったく終わらない”既視感だ」

という2つの解釈が有り得た。だが、『Rule』の『You're like a never ending deja vu』によって前者が妥当な解釈ということになった、かな。ほんに、歌詞というのは難しいわねぇ。

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は??え??? いろいろ寝過ごしててまだ観てへんのやけど、『不滅のあなたへ Season2』最終回第20話が終わった時点でSeason3制作決定が発表されたんですか? いや、本当? ってか、え、正気??(笑)

既にSeason2の時点で「人の生死を弄ぶおぞましさ」と受け取られかねないお話が展開されていたというのにそこから更に深くツッコんでしまう原作でいう第二部を公共放送で流す気? えぇぇ?

あぁそうか、日曜夜19時という放送時間が見直されるのかもしれへんね。それならまだ大丈夫…なんかな? こどもがみたらトラウマになりそうなシーンが頻発しますからねぇ。なんというか、そんなに作品自体が話題になってないのが救いというか有り難いというか。こういうのも怪我の功名っていうのかしらん。


で。勿論私たちが注目するのは「Season3も主題歌は『PINK BLOOD』なの?」という点だろう。既にSeason1及びSeason2の通算合計40話で変わらず主題歌を務めている『PINK BLOOD』。昨今のテレビアニメシリーズの中では破格の好待遇だが、Season3でも継続されるのだろうか?

曲の強さとしては申し分ないし、主題歌はお馴染みになればなるほど強力だし、もし継続となったとしてもなんら異論はない。気になるのは歌詞の内容が物語とリンクするかどうかだが、これ例えばノッカー側からみた視点とかで読み替えたら案外ハマるような気もしなくも無い。うむ、アリな気がしてきた。いいんじゃないか。

それはそれとして、勿論主題歌交替も有り得るのだが、常々言ってるように宇多田ヒカルの後任って引き受けたいか?? なかなかに度胸が居ると思うが。『鬼滅の刃』でLiSAの後をAimerちゃんが引き取ったが、『残響散歌』は『紅蓮華』に負けず劣らずの人気を博した。ああいうことを宇多田ヒカル相手に出来る人選…うーむ、考えづらい。

となると、いやそりゃもうヒカルに新曲をお願いするしかないよねという結論にスタッフもあっさり到達するしかないでしょうね。後はヒカルが引き受けるかどうかだけど、あの感じだと作品自体を気に入ってそうなのでスケジュールさえ大丈夫ならOKしそう。原作第二部のテイストを気に入ってるかどうかというと、わからないけれども。作者自体に共感してる気もするのでいけるんじゃない?(楽観的)

いずれにせよ、またETVからヒカルの歌声が流れてくる可能性が出て来た訳で、いやこれは非常にめでたいことなのです。もう作品自体追ってない人も多かろうがそれは相性があるからね。特にこの「不滅のあなたへ」は癖の強い作品だから視聴者を選ぶだろう。だからヒカルが新曲を作るのならかなりチャレンジングなことも可能な気がするので、実験的な作風を期待したいんですわ。いつのことになるか知らないけどね!

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そういや『Time』ってそんなにヒットしなかったなー。同系統の『Prisoner Of Love』とかとそこまでクォリティに差は無い…どころかサウンドのビックリ箱ぶりは『Time』の方が甚だしいくらいでな…やっぱタイアップ相手の強さの違いだったんかな…と他所のせいにする前に曲自体で原因を考えてみると、そうね、「歌詞がハマり切らなかった」というのはあるかもしれないな。

『Wait & See ~リスク』なんかでも思ったが(また昔だなぁ)、メロディ自体はいいのに時折歌詞が野暮ったく響く事があるのよね。逆に最も歌詞がハマったのが『traveling』で、あのワンワード・リフレインの鮮烈さはまぁ世界史に残るよね。ビートルズも真っ青って言っていい数少ない例だわ。

『Time』は『Prisoner Of Love』に較べて歌詞が野暮ったく…ってわかりにくいかな、理屈っぽかったり説教臭くなったり(といってもほんの僅かに、だけどね)と、謂わばヒカルさんの頭の良さがそのまま出ちゃってるような感じになってる歌詞があったりするのよね。そうなると、メロディにフックがあってもキャッチーに響きにくい。『Time』にはタイトル連呼もないしね…いや、あるにはあるけどあれはキャッチーからは程遠いだろ!(笑)

『Prisoner Of Love』は英語のタイトルを連呼する場面と日本語歌詞の切なさがうまく噛み合ってるんだよね。そこのバランスってまたこれが難しい。わかりやすい極端な例としてここは『Be My Last』を出すか。あれのメロディはとてもよく出来ているのだが何故か歌詞が投げ遣りで…いや本人が言ってたけどね、最初の三行『かあさんどうしてそだてたものまでじぶんでこわさなきゃならないひがくるの』でもう言いたいこと言い切っちゃったから、って。そこから先は蛇足だったんだろうね、特にサビが投げっぱなしでなぁ。この曲はリフレインでタイトルを連呼するよりも丁寧に1番も2番も3番も違う日本語歌詞を当て嵌めていった方がずっと売れただろうな。メロディのキレという点では『SAKURAドロップス』を更に進化させたような情感に溢れてたんだけど、あの歌のような丁寧な構成の歌詞が『Be My Last』には無かった。それが痛かった。『SAKURAドロップス』なんて年間6位の大ヒット曲になったというのに『Be My Last』は…嗚呼、当時のiTunesチャートで年間2位獲ってたか。

多分『Time』と『Prisoner Of Love』、『Be My Last』と『SAKURAドロップス』の関係は似たようなものなのだろう。歌詞がハマり切らなかったせいで大ヒットを逃したというか。メロディ自体はどちらも遜色ない。あたしは歌詞にそこまで拘らないので自分で聴いて楽しむ分にはそんなに変わらない。ただ世間でヒットしたかどうかが違うだけでな。

それにしても、それがタイアップのヒットサイズと連動してるのはどういう訳か?? それについてツッコんで考えるのはかなり歯応えがあるのでまた別の機会に譲るか。

そんな事言ってるけど、結局法則性ないのよねぇ。『Be My Last』のサビがぶっきらぼうなタイトル名の繰り返しだから云々とか言っても、『One Last Kiss』なんてサビ『Oh-Oh-Oh-Oh』だからね。歌詞が無いのに特大ヒットじゃん! いや、英断だったと思うけども。

ヒットしたかどうかを気にせず楽しんでる分にはどうでもいい話なんだけど、ヒットがその後の音楽性に影響を与えるってのが今週触れてきた話なので、それはそれで気にしていくのもひとつ意味があるんだなと思い直してるとこなのでした。勿論、『Time』自体は大好物でがんす!

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うぉぉ、昨夜のインスタ投稿、なんという尊い写真か。母、子、猫。ロンドンの猫カフェでの1枚。もうこれは一幅の絵画よね。美しい。未来の美術の教科書に「21世紀当時の(猫カフェという)世俗的な背景と時代に依らない普遍的な親子の仲睦まじい姿を描いた1枚」とかって紹介されるヤツだ。

ヒカルさんのいつの間にか随分伸びた後ろ髪に隠れるように元気そうなダヌくんの近影が窺えるのがまたよき。我々にとってヒカルに「こどもができた!働かなきゃ!」とプロフェッショナルな音楽家としての復帰を決意させてくれた一生大恩ある人物だからね。尊い。どこまでも尊い。

そしてこの絶妙な顔面の隠し方、宇多田ヒカル的既視感、まるで終わらないデジャヴ、Never Ending De-javuを感じさせてくれるなと思ったら、あれですよ、ヒカルの好きなドガですよ!


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あと、これはちょっと反則気味(笑)だけど、実は、この絵の、この女の人が、ドガの絵の中で私が一番好きなとこ。なんかマニアックでごめんなさい。

あの有名な画家のマネ(Manet)と彼の奥さんを描いたもので、ドガがマネにプレゼントしようとしたんだけど、どうもマネが激怒して絵を破いちゃったんだって。それであの女の人の顔が切れてるの。

最初からこういう絵だったらよかったのに、って思うくらいあの顔の切れっぷりが好き。なんでだろう。あの切れてる位置が、とってもいいの!!!顔の見え具合、というか、見えなさ具合が。いいよね!

https://www.utadahikaru.jp/from-hikki/index_35.html


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そう、ヒカルさんは「顔の切れてる絵」が好きなのだ! この際、マネが破いたとかいう経緯は関係ない。『最初からこういう絵だったらよかったのに』と言っている通りだ。まさかその理由が、未来に自分が息子と顔の切れた幸せな1枚を撮るからだとは当時のヒカルは知る由もなかった…というのは言い方が変だとしても、今回のインスタは、単にヒカルが息子のプライバシーに配慮したのみならず、1枚の写真として、1枚の絵として好ましい作品をアップロードしたのだと言うことが出来る。

……その渾身の1枚を撮影したのが誰なのかはさっぱりわからないのだけど!!(笑)
猫カフェの店員さんなのかなぁ? ヒカルが猫を撮影しようとしている所をシャッターチャンスだと見定められるって相当センスいいよね。ってか、ヒカルの好みの1枚を撮影できる誰かってそうそう居ないよね。もしやダヌパパ?? いや、ロンドンで会うかなぁ…?

まぁそこ勘繰るのは野暮ってことで置いといて。

インスタとツイッターに書かれたコメントもいいわね。キラッキラのパリコレから帰ってきてほっと一息。こういうのを「庶民派をアピールして好感度アップ」とかいう意図もなくサラリと公表出来るセンスよな。もう今のヒカルは、昔みたいに「ファンに疎遠感や疎外感を感じさせないように」とかの特段の配慮無しに受け手にそういった安心感や満足感を自動的に(Automaticに!)与えられる存在になっている。敢えて思い遣りや気遣いを心掛けなくても、自然と振る舞うだけでそうなる人間になった。若い頃に「笑顔が素敵な人でありたい」とか「人に優しく」とか「いい世界にしてあげたい」とか願っていたのが、40代を迎えた今結実している。いい世界にするにはまだまだ道半ばだけど、こういうのを「大人になった」「夢を叶えた」と言うのかもしれないなぁ。

なので、結果として庶民派アピールと受け取られようがそれによっ好感度が上がろうが、この真の自然体の姿勢には敵わない。パリコレの華やかな世界で特一級のセレブ達からレジェンドに会えたと感激されるのもヒカルさんなら、ヨレヨレの普段着で近所のカフェで寛いでるのもヒカルさんだ。だからどうというのはないのだ。今こうやって生活してますってだけでね。構えんなぁ。

というインスタ投稿をしているのは猫カフェじゃなくてその寛いでる近所のカフェの方であって、いや1回の投稿でカフェ2つ出てきてんの、意識してないと後年絶対勘違いしちゃうヤツだね…だなんてことを気をつけたがるのは、日記をこうやって十何年も書いてるが故の私の感覚の所為ですけどね。

しかし、前回の『猫の手も借りたいくらい忙しいはずなのに』の一言が猫カフェへの前フリだったとはね! …そんなこと誰も言ってませんかそうですか。猫の手を借りて電話番をしてもらっても、こんな風に、電話に出て貰う事もかないません。せいぜい、客になってのんびりするくらいが関の山。こっちが余計に忙しくなるヤツ。パリで感激と感動を浴びまくってきた後の猫の無関心って、堪らなく心地好いだろうな。猫って、いいよね…。

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