Twitterをちらっとみると、すごく楽しそうに充実して過ごしている人と、人といがみ合ってばかりの人が隣り合わせで流れてきて、観てる景色がこうも違うのかと感心するというか呆れるというか。Instagramを覗くとまぁそれなりに穏やかにみえてもなんだか沢山罠が張られているようでもあり。その隣のThreadsを覗くと期待されている程平和でもないかとなり。SNSも様々ですな。今の時代にBBSやmixiが存在したらどうなってたのやら…って過疎るだけか。5ちゃんねるはなんというか老人の棲家ですかねぇ。
と、ろくにネットサーフィンをしていない時期に限ってそんな語り口で話を始めたくなってるのも、こういう様々な人たちを相手にして25年間歌詞を書いてきたヒカルさん凄いなと改めて思ったからなのでありまして。
特にTwitterに顕著なのだけど、
「主語がデカいほどいがみ合う」
という傾向はあるなと。個々人でなく属性、それも属する人数が多ければ多いほど対立構造が強いなと感じさせられる。いちばんデカいのは「男」vs「女」で、なるほど人類を粗方二つに割るこの構図はいちばん属する人数も多いわよね。二項対立の最たるもの。あとは人種や国や職業やという風に少しずつスケールダウンしていくんだけれどもやはり「男って」「女って」という切り口で語り始めると悪口が多い。傾向の話だけどね。
平和な界隈をみると、属性でみてないよね。どこまでも個々人同士の話になる。「うちのパートナーが素敵」とか「うちの相方かわいい」とか、男と女の話というよりかは、特定の誰かを称えるというか。主語の(人数的な)サイズが小さい。相対的な傾向として。
(思い切り余談だけど、「主語」といいつつ「それ目的語やんけ」「それ述語やな」と言いたくなる場面も多い。何だったら今書いてる自分の文章もそこがあやふやだ。でも話が通じればいいかとここは見過ごしておくことにする。)
で。不思議なのは、ヒカルさんの歌詞って、そのどちらでもないのよね。特定の誰かについて歌ってるわけではなくて、むしろ出来るだけ多様なリスナーの誰もが…少なくとも、一人でも多くの人に共感してもらえるように歌詞を書いている。ベンジーにグレッチで殴って欲しい、みたいな特定の人物、特定の事物はなかなか歌わない。たとえば『BADモード』で『ウーバーイーツ』や『Netflix』といった固有名詞は出てくるが、じゃあこれは出前館やU-NEXTを敵に回してるかというとそうじゃない。寧ろ時代を通して「あるある」と思ってもらうための装置としてはたらいている。
つまり、結構「大きな主語」を使いがちなのだヒカルさん。最たるものが『初恋』の
『人間なら誰しも』
のフレーズだけど、これも、そういった言葉で何か強く主張するのではなく
『だけどもしもあなたに』
という段落を通じて、個々人の内面的体験に帰着させていく。つまりはこの振り幅だ。『人間』という、属する人が80億(ああもう81億超えてるのかな今は)にも上るでかい主語から『あなたと私』という属する人が2人のみの空間に着地する。だから「誰しも」が「自分のこと」を歌われているように感じられる。改めて、凄い。
ポピュラーソングというものは、より多くの人たちに響くように「みんな」を主語にとりがちだ。そちらは応援歌に帰着しがちだが、、或いは、シンガーソングライターとして私小説を綴るラブソングもあるのだけど、これを多くの人に響かせるには「憧れの理想的な恋愛」や「こうあるべきな失恋」に話が行きがち。宇多田ヒカルはそのどれらの道でもない、普遍性を追究しながら私とあなたの空間に辿り着く稀有なやり方でここまで来ている。
なので、ヒカルさんのスピリットは、様々なSNSの中でも比較的異様な空気感を作ってはいるのだけど、最近は発言自体が少ないからね、それはそれ、になってるねぇ。
だからといって宇多田ヒカルの作詞術が怯んでるわけでもなく、寧ろ更に話を前に進めようとしてる。だからこの80億を超えて『Electricity』みたいな“地球という枠”すら飛び越えていく歌詞も書き始めてる。でもまそういうのは、ツアーが無事終わってから考える事、かな? ライブで歌われてる所を観れるかどうかで話が変わるかも、しれないしね。楽しみにしてる。
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