無意識日記
宇多田光 word:i_
 



前にも一回書いた気がするけど念の為。

「映画の主題歌を担当する時はミックスに気をつけて下さいヒカルさん。」

『桜流し』はEVAQのエンディング・テーマとして完璧以上だった。歌詞のハマり具合もそうだが、たった5分で2時間の本編を上回る感動を与えたという意味でまた『誰かの願いが叶うころ』と同じ事をしてしまった。(それを考えると『春の雪』は随分頑張ったなぁ…)

しかし、だ。勿体無い事がひとつあった。『桜流し』だけ、ミックスが2ch、即ち左右1つずつ合計2つのスピーカーで鳴らされる事を想定したサウンド・メイキングだったのだ。

それまで2時間、映画の観客は前から下から左右後方から迫り来る効果音と劇伴音楽に翻弄されてきたのに、エンドロールではどうにもこぢんまりとした「なんとなく真ん中寄り」のサウンドしか提供されなかったのだ。元々『桜流し』のサウンド・プロダクションは小森気味で、いや違う(笑)彼に罪はない、隠(こも)り気味で、歯切れがよくないのだけれど、それに加えてスケール感までスポイルされてしまった。あの歌は最終的にど真ん中から聞こえてくるヒカルの歌唱が総てを持っていくから何とか格好がついていたが、出来ればバックのサウンドもコンサート会場のオーケストラみたいなビッグなサウンドで聴きたかったというのが正直なところだ。


で、だ。勿論宇多田ヒカルはこれからも映画の主題歌を担当するだろう。そのうち映画自体を作ってしまうかもしれないし。そうなった場合の対処法は勿論、映画館で流すように5.1chミックス(え、最近は7.1chとかなの?)のバージョンを別に用意する事だが、もうひとつ上手くいくかはわからないが提案がある。モノラル・バージョンを作る事だ。それを総てのスピーカーから流すのである。

私はやった事がないから実際どういう効果が出るかはわからない。強いていえば、前に「風立ちぬ」を映画館で観た時に音がモノラルでも全く問題なかった経験がある、という事くらいでな。公開当時の特集でも触れたが、最近は"画面の外"からよく音が聞こえてくるせいで、銀幕というのが"狭く"感じられる事もしばしばだったのだが、音がモノラルになった時の方が銀幕が"広く"感じられるようになった。何しろ音が真ん中からしか出てないんだから音の世界は"随分狭苦しい"のだ。純粋にアニメーションの素晴らしさを味わって欲しい宮崎駿からすれば当然のアプローチだっかもしれない。この調子だと次の作品2時間サイレントかもしれんよ。

まぁそれはいいとして。さっきまでサラウンドで映画館のあちらこちらから聞こえてきた"音"が突然モノラルになったらどうなるか。真ん中に突き刺さるだろう。まるで心の中央から歌が湧き上がってくるように聞こえるのではないか。一度やってみて欲しい。勿論、うまくいくという保証は全くないし、映画の内容や歌の方向性に大きく左右される話だというのもわかっている。昨今は邦画が好調だというし、昨年のRADWIMPSの売れ方をみるとやはり映画館で歌が鳴ると人の心を鷲掴みに出来るので、そのミックスのありようは一度くらいしっかり検討しといた方がいいよって話でした。

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今ドイツはデュッセルドルフで卓球の世界選手権個人戦が開催されている。過去4回、日本で開催された世界選手権を観戦しているが、やはり大会の規模は別格だ。五輪が選抜された精鋭の大会だとすれば、世界選手権は本当に世界中のありとあらゆる国からの選手が集まるので"インスタントコスモポリス"という雰囲気だ。即席国際都市、だぁね。

選手が勝ち上がって絞られてくれば状況はもう五輪やワールドカップ(こちらは各大陸代表とランキング上位者のみ出場)と変わらない。なので、世界選手権ならではの醍醐味は寧ろ大会序盤にこそある。こんな国でもスポーツしてるんだねぇ、とか向こうからしたら大変失礼な感想も持ってしまう。しかし、そうやって他の国を認知するところからまず話は始まる。

これだけ大規模な大会だと、当然というか何というか、テロリズムとも無縁ではいられない。一昨年の世界ジュニア選手権では、会場がフランスだった事もあり日本は選手団の派遣を見送った。実質的には若手が成長する機会を潰しただけだが、だからといって強行出場を選択しない事を責められたものではない。そもそもは、テロリズムが起こらなければいいねだから。

大会会場をグルッと回ると、平和だなぁと感じる。世界選手権なので皆勝ちに来ている訳で、和気藹々としてる訳でもないしお互い仲がよい訳でもないんだろうが、結局やる事は台を挟んで球を打ち合う事だけだ。何の生産性もない意地の張り合い。それが、やっぱり、平和なんだなと。

やる事がある。それだけで全然違う。必要なのは、肝心なのはやりとりを執り行う手段の在り方であって、個々の感情がどのように渦巻いていても関係がない。逆に、善意だ正義だといって硬直した方法論にこだわるとろくな事がない。いや、特に特定の誰かや何かを思い浮かべている訳ではありませんが。

「地獄への道は善意で敷き詰められている」。これを"好きな言葉"として取り上げるのは気が進まないが、真理を大きく言い当てている。自分のした事が何を結果としてもたらすか、やる前に出来るだけ想像し、やった後もどうなったかよくみておく。とても何気ない事だが、それを繰り返し続けるしかない。この世界と仲良くする基本の方法論である。

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