VOGUEの写真がよくて、やっぱり被写体に責任なかったよねと納得中。素材は抜群(そりゃ私の中では宇宙一ですし)なんだから余計なエゴなんか捨ててそのまま撮りゃあ何とかなるのだ。VOGUEが「何もしていない」訳ではないのだが、そう言いたくなる「スマートさとストレートさ」は大事なのですよ。たまには写真に駄目出ししてもいいんじゃないかなぁ。なんか、勿体無い。
と、外見は毎度千変万化だが、内面の方はというと驚くほど変わっていない、というか幼い頃若い頃に受けた影響が大変大きく、そこからは変わりようがないのだな、とあらためて思わされるVOGUEのインタビューである。新曲の事も訊きたいがこういう話はもっと聞きたい。
本好きにとって装丁の手触りや新刊を初めて開いた時の薫りなど「書籍フェチあるある」には事欠かない訳だが、時々思う。本は読まないけど、本の手触りや匂いが好きって人は居るのだろうか居るとしたらどのくらいなのだろうか。というのも、当たり前なのだが、本に触れないと書籍フェチは発動しないのだからそもそも判定できる機会がないよね。これを疑問にしたいのは、ヒカルの「好き嫌い」が相変わらずエピソード記憶由来だらけの中でこの書籍フェティシズムはルーツにあたるものなのではないかとな。目の前の本屋さんで得られる圧倒的な本との触れ合い。それを通じて想像力が爆裂してしまい総ての好き嫌いがエピソード記憶と…と私の妄想も過ぎる。
自分はあっさり電子書籍な人間なのでそういった匂いや手触り、帯やカバーの管理に栞の選定や籠絡(なんだそれは)に拘る事はなくなってしまった。しかし、純粋な情報だからこそ「本」という物質体を持つ事が「本」の本質だ。「本」質、本の質(ほんのたち)なのである。のほほん。
勿論半導体上のオンオフだって情報の物質化だが、再生メディアではない為、今のところ「本」にかなわない。てぶらでふらっと駅の売店で文庫本を読んでもその場で楽しめるのが強み。もっとも最近は、手の中にスマートフォンがない方が稀(私は稀)なのでその強みも優位性にはならないのだが、原理的には変わらない。本は単独で残ればまた読まれる。即ち独力で"生き続けれる"のだ。半導体メモリだって再生機器とセットならいいんだけどね。なんかそれはまた別の話になりそうだ。
なんだか話がまた逸れた。なんだろう、新曲のインタビューを聞くよりこういう話の方が色々と余計に語りたくなる。まだVOGUEで話してた事の二、三行程にしか触れていないのに。来月のロキノンのインタビューはここまで私を饒舌にしてくれるや否や。わからないけれど、これで逆に新曲が益々楽しみになったわ。
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