ひどい雨が降っています。
明日はさらにこれが暴風雨になるとか。
出勤が心配です。
今日は午前中に一週間分の食料の買出しをすませ、さらに珈琲豆専門店で愛飲のエメラルド・マウンテンのハイ・ローストを600グラム手に入れてきました。
午後はただ雨に閉じ込められ、ぼんやりとすごしているのみです。
こんな時、私は気鬱に沈みます。
哀傷、でしょうか。
メランコリー、でしょうか。
はたまた単なる病的魂でしょうか。
いっそとことんまで落ちてしまえばよい、と自暴自棄にもなろうというものです。
この呪わしい天候が私をして気鬱に沈めているというなら、とことんお付き合いつかまつりましょう。
そして台風一過の晴天が大空を覆ったなら、私は呪わしい天候へ復讐を果たしながら、どこか懐かしく、激しい気鬱を回顧せざるを得ないでしょう。
今日は久方ぶりに、銀座をそぞろ歩きました。
近頃の私は、銀座は銀座でも、千葉銀座に出向くことが多かったですから。
車を西銀座地下駐車場へ留め、とくにあてもなく銀座通りを歩きました。
今日は土曜日。
午後からは銀座通りは歩行者天国になります。
お昼は少し気張ってフレンチの簡単なコース。
メインの鴨肉はじつに美味でした。
ただし、少々量が多かったようです。
近頃の私はプライベートをほとんど着物で過ごしており、今日も当然着物。
誂えたばかりの黒に近い濃紺の着物で出かけました。
目的というわけではないのですが、銀座もとじの男着物専門の店舗を冷やかしました。
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銀座もとじの男のきもの (別冊家庭画報―きものサロンMOOK) |
泉二 弘明 | |
世界文化社 |
私は上の本を頼りに帯の結び方や着物のたたみ方を習得しました。
DVDがついており、それを見ながら何度も角帯を結び、今では半分寝ていても結べます。
呉服屋でも、大抵、「着慣れていらっしゃる」と褒められるようになりました。
まだ着物を常用するようになってから1年も経っていないのですが。
まぁ、男物の着付けは簡単ということでしょうねぇ。
男着物専門店というのは都内にも数軒しかなく、けっこう繁盛していました。
そのおかげで、店員にしつこく勧められることもなく、ゆっくり見ることができました。
銀座には幼い頃から映画や演劇の鑑賞とそれに伴う食事などで親によく連れて行ってもらいました。
中学生の頃通っていた塾の最寄り駅からも近く、悪友と塾をさぼってふらふらした思い出の地でもあります。
そういえば亡き父は銀座をあんまり好みませんでしたね。
気取った感じが厭だったようで、それはなんとなく理解できます。
今はずいぶん外国人観光客が増え、特に中国人は多いようでした。
お金は大いに落としてもらいたいですが、路上で痰を吐く癖は、御国ではないのですから、およしになったがよろしいでしょう。
みゆき通りや並木通りなどの裏道というには広い道なども歩き回り、京橋近くの喫茶店で珈琲などいただき、帰路につきました。
晩は平目の刺身と〆鯖。
最近焼酎やウィスキーを止め、日本酒にしていますが、旨味=雑味が多いためかちびちびとしか飲めないため、飲み過ぎることがないようです。
年をくうと日本酒に回帰する、という話は聞きますが、それが私の身にも起こったんでしょうかねぇ。
我、迷妄の淵に沈まむとするや、亡父の言動を想起せしめ、これをもって範とし、迷妄より脱出せしめんむと欲するを常とす。
我、心の病を脱すること五年、もはやこれを克服せしめたり。
それもまた迷妄なりや。
我、職を全うしつつありしも、精神上の苦痛耐えがたし。
我が職を全うせしめうる所以は、唯一つ、報酬を欲するがためなり。
報酬を欲するがゆえをもって、これほどの苦痛に耐えざる能わず。
能わずといえど、なお、出勤を重ねるは、我の金銭欲ならずや。
而して、亡父であらばいかなる行動に出るや。
上司を叱責するや、職を辞すや。
亡父また、組織人たるの自覚を得ず。
ただ自寺を持しつつ、宗門での出世を得たり。
これ組織人といわむか。
しかれども我、組織人として二十数余年を過ごしたり。
自ずから、我が仰ぎ見たる亡父とは異なる人生観を抱くは当然なり。
さりながら我、未だに亡父の指導を請おうとは、これ、我の甘えにあらずんば何と言わむか。
我、不惑をこえて五年。
我、今こそ亡父を行いの規とあらむと心得るを、かえって親不孝と得心し、我の思うところにしたがって行いを全うすべし。
それでこそ、黄泉か西方浄土か、いずくにか知らねど、亡父と再会せし折に、互いに杯をかさね、心地よい酒に酔う幸いを得たらむ。
我、亡父の導きを捨てむ。
我はただ、医術に恃み、さらには我が心の強きを恃まむ。
他に、心の平安を得たる能わず。
どこの職場にも、ろくに働かず、だらだら過ごしてその分を若手や中堅がフォローする、という困った中高年がいるものです。
50代も後半になり、出世の見込みはなく、飽きがきた仕事ではモチベーションが上がらないのは当然で、かといって新しい仕事に挑戦する気などさらさら起きず、結局はただ出勤しているだけ、みたいなおじさんです。
早い人では、40代半ばあたりからこの症状が現れ、私もそろそろそうなるんじゃないかと戦々恐々としています。
事務仕事を20年以上も続け、その上モチベーションを維持し続けるというのは容易なことではありません。
何かが出来上がるわけでもなく、売上のように数字で目に見えるわけでもなく、なんとなくうまくいけば良くて、しかもうまくいって当たり前。
やりがいなんて感じられるはずもありません。
しかし、世の中の圧倒的多数の社会人は、とくにやりがいなんてなく、ただ食うためにたまたま縁があった仕事を漫然と続けている、というのが本音でしょう。
そして世の中は、そういったやる気のないおじさんの群れに下支えされていると言っても過言ではありません。
でも私は、やる気があるか、意欲があるかなんて、どうでも良いと思います。
やる気があろうとなかろうと、やるべき仕事を素早く正確に片づければ良いのです。
その際、あんまりやる気は無いほうがうまくいくと思います。
一歩引いて、冷めた目で仕事に当たることができますから。
要は結果が全て。
結果が良ければ、意欲があったか無かったかなんて、全く関係ありません。
私はやる気も意欲も無いけれど、目の前に仕事があるのが嫌だし、やり直しを命じられるのも嫌、つまり面倒くさいから、まずは面倒くさいことを素早く正確片付けるようにしてきました。
結果どうなるか。
仕事が増えるのです。
これは恐るべき悪循環です。
仕事が嫌だから素早くやっているのに、増えちゃうんですから。
ここは心を入れ替えて、やる気もないし仕事もしないおじさんを目指そうかと思っています。
社会人たるもの、常に感情的にならず、冷静でいなければならないのは当然のことです。
とくに中高年においては。
若いうちはたかが仕事のことで熱くなったりするものですが、年を経るうち、世の中そんなに大層な仕事はないと気付くでしょう。
とくに私のような事務職においては。
しかし、どこの部署にも、わずかながら、気分屋さんが存在するものです。
ちょっとしたことで怒ったり、泣いたり。
そしてまた、そういう人は、変に上機嫌だったりして、薄気味悪いものです。
私は双極制障害を患っており、気分屋の塊みたいな病気ですが、病気であるがゆえ、あんまりひどい状態になると医師に出勤を禁じられてしまうので、職場では概ね冷静な性格と思われているように感じます。
障害というほどではない気分屋というのは、なかなか手ごわいもので、障害ではないがゆえ、かなりご機嫌斜めだったり、逆にハイテンションだったりしても、出勤してくるから迷惑です。
そういう人一人のために、嫌な思いをすること度々で、今日、まさに地雷を踏んでしまいました。
私としては遺憾としか言いようがありません。
大人同士の冷静な付き合いを心がけたいものです。