ブログ うつと酒と小説な日々

躁うつ病に悩み、酒を飲みながらも、小説を読み、書く、おじさんの日記

お迎え

2014年10月15日 | その他

 多くの中年諸氏、わけても女性は、外見の老いを怖れますね。
 気持ちは分からないでもないですが、無益なことです。
 外見が老いないようにしたかったら、なるべく早く自ら命を絶つことをお勧めします。

 外見の若さを保つ方法を売りつけようとする宣伝番組を見たすぐ後に、肉体の健康を維持するサプリメントの番組を見ているとなると、これはもはや滑稽としか言いようがありません。

 長生きすれば必ず外見は衰えます。
 肉体的に健康でも、皺や白髪を完全に防ぐことなどできようはずもありません。

 それはおぎゃあと生まれた赤ん坊が、日に日に成長するのと同じこと。
 衰えるということは、きちんと成長し、さらには長生きできたということで、むしろこれを寿ぐべきでしょう。
 長生きした老人の皺が味わい深く、時に美しいものであることを知るべきでしょう。

 そもそも、この先どれだけ長生きできるか分かりません。

 今が一番若いとは言い古された言葉ですが、全くそのとおりでしょう。

 昨日はすでに過ぎ去って取り戻しようがなく、明日は今日より一日分老けるのですから、常に、只今現在が一番若いのは道理です。

 私は近頃老眼が出てきて、新聞などを近くで読む際には近眼鏡を外さなければ駄目になりました。
  眼鏡をしたまま読もうとすれば、顔から新聞を遠ざけるよりほかありません。
  これに気付いたのは数か月前のことで、なるほど、老眼とはこういうものかと、恐怖よりも得心がいったことを覚えています。

 禿げようが白髪になろうが皺やしみが増えようが構いませんが、痛みを伴う衰えは怖いですねぇ。
 腰痛だとか神経痛だとか。
 さらには内臓の疾患も怖ろしいものです。

 しかし痛みや内臓の疾患も、逆に言えばそれだけ長生きできたということでしょうから、例えば長く乗った愛車のエンジンが痛み始めたみたいなものなんでしょうね。

 そもそも老いること自体は病気ではないし、避けられない以上、これを受け入れ、付き合っていくほかないんでしょうねぇ。

 山田風太郎が、「老いるということは、昨日出来たことが今日出来ないのではない。さっき出来たことが今出来ないのだ」と書いていたのは衝撃でしたねぇ。

 そんな境地に達するまで、果たして生きられるでしょうかねぇ。

 しかし何より怖ろしいのは、精神、というより魂の衰えでしょうねぇ。

 人間が人間たる所以のもの、そしてまた、己を自律せしめているものは、何より魂の強靭さでしょうから。

 そしてそれが衰え始めた時、人はあの世とこの世を行きつ戻りつし、ついには完全にあちら側に逝ってしまうのでしょう。

 私は中年で、今与えられた役割に夢中になっているべき社会の中核的世代で、老いの心配をするのは少々早いかもしれません。

 しかし私は生まれついてのせっかち。
 生まれる時も母親の腹の中が窮屈だったのか、予定日よりも二カ月早く生まれた未熟児でした。

 このせっかちな性格が、私の命を縮めるのではないかと同居人は心配しています。

 あぁ、面倒くせぇ、早くそっちへ行きてぇから、大輪の蓮なんてしゃれた乗り物じゃなくったってかまわねぇんだ、とっとと迎えを寄越してくんな、迎えが無理なら地図でもいいやな、てめぇでどうにか行きつくからよぉ、みたいな。 

 でも本当は、立派な蓮に乗って仏様がお迎えに来ても、いやじゃいやじゃと、乗るのを拒むような気がしてなりません。

 そうしたら、浮遊霊となって、全世界を自在に旅したいものです。

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物語の真実

2014年10月15日 | 文学

 時折、なんということもなく、来し方を思い、また今の状況を考え、憂いを帯びることがあります。

 中年なればこそ、若い日の愚行は、愚かゆえに懐かしくも感じるもの。
 しかし40代半ばの今も、愚行を繰り返して生きていることに変わりはありません。
 ただ、愚かさの上に常識の仮面をまとっただけのこと。

 時間というのは不思議なもので、確かに起きたことなのに、あらゆる事実が歪められ、あるいは誇張され、また、忘れ去られていきます。

 だからこそ歴史学なる学問が生まれ、歴史学者は考古遺物や古い文書などを手掛かりに、昔の姿を再現しようと努めるのでしょう。
 しかし、それが確かにそうだったかどうかなんて、分かるはずもありません。
 なんとなれば、私たちは半日前のことですら、精確に再現することは出来ないからです。

 最近朝日新聞が、従軍慰安婦は旧軍が組織的・強制的に行ったものだとする30年も前の記事を訂正しました。
 そういう事実はなかった、あるいはあったかもしれないが確たる証拠はない、と。

 その一事をもってしても、過去、この世で行われたことを精確に知ることはできないと得心がいくでしょう。

 ゆえに私は、繰り返し、真実は物語の中にしか存在し得ないと言い続けてきたのです。

 物語のなかでは、時制は自在に変化し、あるいは過去や未来を行き来してしまいます。
 SFでは必須のタイム・トラベラー物というジャンルは根強い人気がありますね。

 ハイデッガーは、「存在と時間」のなかで、根源的な時間とはそれ自体で存在するものではなく、現在から過去や未来を開示して時間というものを生み出す(みずからを生起させる)働きのようなものだと主張しています。
 また現在もそれ自体で生起するのではなく、死へ臨む存在としてのわれわれが行動する(あるいはしない)ときに立ち現れるものだ、とも。
 
 均質的な過去・現在・未来という時間はこの根源的時間からの派生物にすぎないとして、これらの派生現象を可能にする「根源的な時間性」の概念を提示しています。

存在と時間(全4冊セット) (岩波文庫)
マルティン・ハイデッカー,熊野純彦
岩波書店

 私は西洋哲学には弱いので、正直、きちんと理解しているとは言えません。

 しかし少なくとも、時間の不思議を解明しようとしているのは、歴史学や哲学さらには理系の様々な学問など、多様なアプローチがなされているのだな、と感じます。

 それら学者の方々のご尽力は多としますが、私はそんなまどろっこしい手法は取りません。

 私はただ、神秘的直観、あるいは霊感のような物に頼ることを常とします。

 それはしかし、ルドルフ・シュタイナーがアクセス出来たという、宇宙のすべての歴史が記録されたという触れ込みのアカシック・レコードみたいな物へのアクセスを試みるのとは異なります。

アカシャ年代記より
高橋 巌
国書刊行会

 私はひたすら、私が感じるところを信じるのです。
 過去を思って憂愁に沈む行為もそうですし、逆に輝かしいであろう未来を想って高揚することもそうです。

 もっとも年のせいか、未来を想うこともなくなりましたが。

 この不思議な時の流れと、そこにしか存在し得ない私を想う時、私は不思議な高揚感に囚われます。

 その高揚をバネに、私が挑んだことの無い小説を執筆しようとしたことが2度、あります。
 しかしあまりに難しく、いずれも原稿用紙換算で100枚ちょっとのところで中断したまま、何年も放置しています。

 一つは「楽園」、もう一つは「宇宙の光とおかま」というタイトルです。

 私は定年を迎えたら、この2つに挑みたいと、今から楽しみにしているのです。

 その時こそ、物語の中の真実とは何ぞやということの答えが、私なりに形にできるものと思っています。
  
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