ブログ うつと酒と小説な日々

躁うつ病に悩み、酒を飲みながらも、小説を読み、書く、おじさんの日記

侏儒

2011年08月30日 | 文学

 昨夜ニュースで民主党代表選挙の様子を見ていて、民主党の国会議員が400人ちかくもいて、その中から一人だけ選ばれるというのは、どういう気持ちがするのだろうと、不思議な感慨を覚えました。

 民主党から立候補して落選した人、野党議員、浪人しながら国政を目指す人、そういうたくさんの人の頂点に立つのだから、たいへんなことです。
 まして国会議員なんて、いずれ劣らぬ狸ぞろい。
 権謀術数や謀(はかりごと)など、お手の物でしょう。

 そこで、芥川龍之介「侏儒の言葉」の一節を思い出しました。

 
宇宙の大に比べれば、太陽も一点の燐火(りんか)に過ぎない。況(いわん)や我我の地球をやである。しかし遠い宇宙の極、銀河のほとりに起っていることも、実はこの泥団の上に起っていることと変りはない。生死は運動の方則のもとに、絶えず循環しているのである。そう云うことを考えると、天上に散在する無数の星にも多少の同情を禁じ得ない。いや、明滅する星の光は我我と同じ感情を表わしているようにも思われるのである。

芥川龍之介です。
 
 続いて、詩人は真理を謳い上げたとかで、次のような正岡子規の和歌を引用しています。

 真砂
なす 数なき星の その中に 吾(われ)に向ひて 光る星あり

 
これなんか、似たようなことを言うやつ、いますね。
 お気に入りのアイドル歌手かなんかのコンサートに出かけて行って、「あたしと目が合った」とか、「ずうっとあたしを見てた」とか言うあれです。

 しかし正岡子規は、間違いなく、おのれ一人にむかってひたすらに光る一条の光を確認したものと思われます。
 そうでなければ、どうして大真面目にかくの如き和歌が詠めましょうか。
 異常な緊張感が漲る、身を正したくなるような和歌ですね。

正岡子規です。

 
「侏儒の言葉」は、芥川龍之介晩年の作品で、いわゆる警句集の体裁をとっています。
 侏儒とは、コビトもしくは体の小さい人、転じて教養のない人、といった意味のようです。
 芥川龍之介がだいぶおかしくなってからの作品で、暗い、凄惨な感じさえする、虚無的な小説で、私は元来好みません。 

 しかしその彼にして、彼の晩年にして、天上の星に同情を示し、正岡子規のあのような和歌を引用していることに、驚きを禁じ得ません。
 不幸にも早晩服毒自殺を遂げることになるわけですが、彼が示した最後の生への欲求を見るようで、痛々しくもあり、切なくもあります。

 いずれにしろ、芥川龍之介は文学という世界において、政治上の総理大臣にも比すべき稀有な才能を持っていたことは確かで、それを彼は自覚していたに違いありませんが、結局は思わせぶりな警句集なんぞを残して、自裁してしまったのですねぇ。

 せめて正岡子規の和歌を引用したときの気持ちで留まっていたら、あるいは生き残れたかもしれません。

或阿呆の一生・侏儒の言葉 (角川文庫)
芥川 龍之介
角川書店
子規歌集 (岩波文庫)
土屋 文明
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