かつてナチは、多くの近代美術作品を押収し、ドイツ全土を巡回して退廃芸術展を開催しました。
これは、表現主義、抽象絵画、新即物主義、ダダイズム、シュルレアリスムなど、20世紀美術の主要な動向にかかわる作品群を、退廃芸術として弾圧し、晒し者にすることを目的としたものです。
この展覧会は多くの観客を集め、現代にいたるも、これ以上の観客数を誇った展覧会は、ドイツでは開催されていません。
しかしおそらく、多くの観客は、退廃だ、唾棄すべきものだと口にしながら、じつはその美に酔っていたのではないかと推測します。
何もナチが政権を取ったからと言って、ドイツ人の多くが近代絵画を嫌ったわけではありますまい。
芸術と倫理をめぐる考え方は、様々なものがあり、ナチのように単純化することは出来ません。
美的判断と倫理的判断とが同じ芸術作品に適用されると、ややこしいことになります。
美的だけど倫理的じゃない、あるいはその逆、なんていうことは、芸術作品には非常に多く見られる現象です。
代表的な考え方に、自律主義と道徳主義と言われる立場があります。
自律主義は、作品に不道徳な面があったとしても、美的価値には一切影響しない、という立場。
道徳主義は、作品の美的価値は、それが道徳的であるか否かによって左右される、という立場。
また、倫理主義と不道徳主義という立場も存在します。
倫理主義とは、道徳的長所は必ず作品の価値を向上させ、道徳欠陥は必ず作品の価値を低下させる、というもので、道徳主義よりはやや緩やかです。
不道徳主義とは、或る芸術は不道徳であるがゆえにいっそう価値が上がるのみならず、倫理的機能が芸術作品に備わるのは、不道徳性を内在させているかどうかで決まる、という立場で、自律主義より一歩進んでいます。
例えば極悪人が登場して悪事のかぎりを尽くす物語は、鑑賞者に、では道徳とは何なのか、倫理的であるというのはどういうことなのかを考えさせるきっかけになるのは当然のことで、だからこそ、古来、反道徳的な要素を含んだ芸術作品が多いのであろうと思います。
芥川龍之介の「地獄変」は、高校の教科書などでよく取り上げられます。
この作品は、稀代の絵師が、地獄図を描くよう貴族に依頼され、絵師が貴族に牛車のなかで焼け死ぬ美女を見なければ絵は完成しない、と訴えると、貴族は絵師の娘に豪華な衣装を着せて牛車に閉じ込め、火を放って娘は焼け死に、絵師は恍惚とした表情で自分の娘が焼け死ぬ場面を眺め、ついに地獄図は完成する、という物語です。
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地獄変・偸盗 (新潮文庫) |
芥川 龍之介 | |
新潮社 |
芸術至上主義と言うべきか、悪と言うべきか、そういうものを描いて、芸術と倫理の問題に迫ったもので、名作とされています。
このような作品を前にして、道徳主義や倫理主義の立場を取る人々は、何と評するのでしょうね。
「地獄変」のみならず、ドフトエフスキーの作品群、さらにはサド侯爵の残酷な作品群に対しては?
また、倫理観や道徳は時代や土地柄によって変化する、ということも重要です。
結局のところ、或る作品は反道徳であってもそれがゆえに評価され、また或る芸術は道徳的であるがゆえに評価される、という多様な評価方法が同時になされるということが大切なのだろうと思います。
世界認識や自己認識を揺さぶる、あるいは肯定する、芸術作品の多様さに鑑みて、評価もまた、多様でなければならないと思います。
あとは好悪の問題でしかありません。
あらゆるジャンルの作品を客観的かつ均等に評価できる鑑賞者など、存在し得ないのですから。