仲良く談笑していたトランプ大統領と北朝鮮の3代目、3代目がなかなか核放棄への具体的な行動に出ないことに苛立って、米国は3代目への制裁を緩めようとしません。
人というもの、誠に争いを好むものと見えます。
特に西洋においては、古典論理学において、排中律という考えがあって、物事がどうも対立的であるように思います。
排中律とは、あるものについて、その肯定と否定とがある場合、一方が真ならば他方は偽、他方が真ならば一方は偽であり、その両方のどちらでもない中間的第三者は認められない、という論理法則です。
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はじめての論理学用語。正しく理解して、とりあえず格好がつくレベルになれる。10分で読めるシリーズ |
MBビジネス研究班 | |
まんがびと |
今ではさすがに西洋においてもこのような考え方は廃れてきていると思いますが、やたらと訴訟を起こしたり自分の非を認めなかったりするというのは、上のような考えが未だに染みついているのかもしれませんね。
一方、東洋においては、真ん中が良いとされてきました。
孔子が説いた中庸、お釈迦様が示された中道。
どちらも極端はいけません、真ん中を歩きなさい、ということでしょう。
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論語 (岩波文庫 青202-1) |
金谷 治訳注 | |
岩波書店 |
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原始仏典 (ちくま学芸文庫) |
中村 元 | |
筑摩書房 |
中庸と中道は、現実世界に当てはめると、よく似ていますが、根本的には異なるものです。
孔子は政治の道を示し、王たる者は中庸を歩まねばならない、と説いています。
さらにはそれを敷衍して、一般庶民にも中庸を勧めています。
これは現実世界をより良く生きるための知恵です。
一方仏教で言う中道は、最終的には解脱を目指すもので、現実世界をよく生きるためだけのものではありません。
ただ、解脱を目指す中道も、生活に取り入れれば、中庸とさして変わりません。
そのような考え方を持つ東洋人もしかし、西洋人と変わることなく、争いを繰り返してきました。
思想では、戦いを止められないかの如くです。
それは歴史を見れば明らかでしょう。
お釈迦様は、シャカ国に攻め入ろうとするコーサラ国の王子(お釈迦様を信奉していたそうです)を二度まで思いとどまらせましたが、三度目は止めようとしませんでした。
複雑な利害関係がある政治状況に鑑み、仕方ないと思ったのでしょうか。
お釈迦様の教えを信奉していながら、尊い人の故郷を攻めなければならなかった王子の心中も察して余りあります。
あれやこれやが複雑に絡み合い、必然とさえ思えるような偶発的な出来事が起これば、人もしくは為政者は戦うことを選ぶのでしょう。
嘆かわしいことです。
それでも私たちは、日本という国に生まれ育ち、東洋文化にどっぷりと浸かって生きてきたのですから、ど真ん中を歩いていく覚悟を持つべきでしょう。
そしてそれが、やがては、争いの無い世界に近づく道なのだと信じるより他ありません。