人は悩む。アタマの中だけで。
気(カラダ・無分別・自然)のレベルで悩んではいない。
気気をすれば目線(基準・物事の見方)が変わる。よって悩みが変わる。
人は悩む。アタマの中だけで。
気(カラダ・無分別・自然)のレベルで悩んではいない。
気気をすれば目線(基準・物事の見方)が変わる。よって悩みが変わる。
私が凡人だから気気を考えた。私に多少なりとも卓越した技術などがあったとしたら、気気の会は、ただ手をあてる会ではなく、技術の向上を目指す会になっていたかも知れない。
私が普通だったから、普通の人でも安心してできる会を作りたかった。私は凡人だと言ったが、凡人以下かも知れない。私は人よりも気が上がりやすいから・・・。こんな私でも気気をすれば気が下がるのだから、普通の人ならばより良くできるということが信じられる。
人は『物』が好きだ。目で見えて、手で触れられるものを信じて、それを欲しがる。金銀財宝は人の生活に大きな影響を与えている。
しかし人はそれ(『物』)だけでは満足しない。人は『人』を欲しがる。『人の心』を欲しがる。認めてもらいたい、信じてもらいたい・・・これもまだ『物』を離れていない。
人は『人』に評価されてもまだ満足しない。無分別な行為をすることで満たされることがある。何のためでもなく、ただ~をすること。
調子良く順調に物事が運んでいる時には、気気は必要ないと思われがちです。楽しい生活の中では、誰もワザワザ時間を作って手をあて合うことなどしたいと思わないでしょう。しかし良く考えてみると、この『順調』というのは、アタマ(分別)の世界で上手くいっているということだけのことです。アタマの世界というのは不安定なものですから、何時また調子が悪くなるのかわかりません。『気』のレベルで観れば、順調も不調もありません。順調な人も、不調な人も同じように『ただ手をあてる』ことを目指して行くのが気気です。順調なことは悪いことではありません。しかし時には、それを超えた大きなハタラキである『気』に合わせて行くことは大事なことだと考えています。
気気は新しい価値観を押し付けているのではありません。誰でも記憶の中には、過去の気持ちの良かった『感覚』がありますが、その『感覚』を思い出してもらうのです。たとえばそれは、子供のときに親からもらった感じであったり、友達と分かち合っていた感じです。それは具体的に思い出せなくても構いません。そういう感覚が記憶されているから気気を気持ち良いと感じらます。大人になってもそういう気持ち良さならば味わいたい。飽きることなく何度でも。