気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

小説の中のからだの感覚と現実

2019-11-22 09:18:56 | 「立つ」健康法
 司馬遼太郎の「峠」を読み返している。この小説の中に、私が普段している「立つ」練習の感覚と近いものがあったので驚いた。主人公、河井継之助が学僕の彦助と百姓一揆を抑えに行く場面、風の強い夜道をゆきつつ・・・以下原文。

「この風が、体を吹きぬけているようでなければ大事ができぬ」
「と申されますのは?」
「気が歩いているだけだ」
「ははあ」
「肉体(からだ)は、どこにもない。からだには風が吹きとおっている。おれはそれさ」・・・(新潮文庫上巻398~389頁)

またある時、石高制を廃止しようとする継之助は反対派から路上でけんかを売られた。相手が剣をぬき、地を蹴ったとき・・・以下原文。

しかし継之助は泰然と立っていた。抜きもせず、避けもせず、あごを心もち上にあげ、呼吸(いき)もみださず、風のなかで自然に吹かれていた。
(わが生命を)
風が吹きとおってゆく。それが継之助の平素の工夫であり、生き方であり、信念のありかたであり、さらにいえば継之助そのものであった。風をしておのれの生命を吹き通らしめよ。
―そのあたりの草も、石ころも、流れる水も、飛ぶ鳥も、その鳥の影も、すべておのれと同質である。すこしのかわりもない。・・・(同525頁)

 「立つ」練習のとき、みぞおちを弛め、余分な力が抜けると、からだの中に空気が入っているように感じる。その空気はからだの外の空気と変わりなく感じる。アタマ(概念)の世界では、自分の内外は違うものだが、感覚という基準で観れば同じである。

 河井継之助は長岡藩の将来を考え行動する一方で、個人としての継之助でもあった。元の性格なのか陽明学で作られたものなのか分からないが、緊急時には生死を超えた意識と、落ち着いたしなやかなからだになり、結果的にそれが活路を開いた。私心のない男の強さである。




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