[第一部 ファースト・ハーフ]
「第一章 ゼネラルマネージャー」 ー1ーー
(君嶋は社会人チーム・アストロズのGMを兼務する)
横浜駅からタクシーに乗り、いつもと違う通勤風景をぼんやりと眺める君嶋。
大学卒業後、トキワ自動車に入社し、3年間、現場の営業部で顧客回りをする日々を過ごした。その後、22年もの間、本社で辣腕を振るってきた君嶋にとっては、横浜工場の総務部長というポストはすぐに受け入れられないものだった。
横浜工場はトキワ自動車創業の地に建つ、小型エンジン全般の製造を一手に引き受ける主力工場であり、社会人ラグビーチーム「アストロズ」を抱えている。
工場長の執務室で、着任の挨拶をする君嶋に対して、工場長の新堂は、「本社から出たのは何年振りか」、と訊ねる。
「22年ぶりです」、と答えた。そして、君嶋は、もう二度と本社に戻ることもあるまいと思う。
引継ぎをしている最中、君嶋は、前任の吉原総務部長から、「ラグビーはお好きですか」、と聞かれる。
実は、横浜工場の総務部長には、「アストロズ」のゼネラルマネージャー(GM)を兼務するというもう一つの顔があるからだ。
アストロズは日本蹴球協会(フィクションの組織)傘下の社会人リーグ、プラチナリーグに所属する"古豪"である。しかし、ここ数年の成績は低迷しており、プラチナリーグを落ちる状況にある。
君嶋は、辞令を受け取った翌日、社長の島本博に呼ばれた。
「アストロズのGMをやってもらうのだが、しっかり頼むぞ」
続けて、島本は、「ラグビーはいいぞ、君嶋君。試合では勝利を目指して全力で戦う。ワンフォーオール、オールフォーワン(One for all,all for one)という言葉、知っているか」
君嶋が首を横に振ると、島本は嬉々として説明した。
「一人はチームのために、チームは一人のためにーー。素晴らしい言葉だろう。ラグビーの選手は、チームのためにひたすら献身し、そしてチームも選手を見捨てない。組織とはそうあるべきだ」
シンプルな組織論か。いかにも島本が好みそうな言葉である。島本は続ける。
「それともう一つ、素晴らしいのは、"ノーサイド"の精神(激しい試合も終了したら敵味方もなく、お互いの健闘をたたえ合う)だ。これはわかるか」
「ええまあ」、と君嶋は小さく頷いた。
新堂工場長からも、「GMに求められているのは、ラグビーの知識やスキルじゃない。いわばマネージメントだ、君嶋君。君こそ適任だと思うね」、と励まされた。
その後、新堂の先導で、昔、倉庫だった集会所に案内された。そこには千人近い社員と50人のアストロズの選手たちが詰めていて、君嶋を待っていた。
君嶋は千人近い社員に通り一遍の挨拶をして、そのあと、選手一人一人と握手して君嶋のためのセレモニーは散会となった。
「第一章 ゼネラルマネージャー」 ー2ーー
(アストロズの選手たちのマイナス思考)
「で、どうなんだ、佐倉。あの君嶋っていう総務部長は、まったくのシロウトだっていう話じゃないか」
そう聞いてきたときの浜畑の口調には、どことなく小馬鹿にするような気配があった。
工場に近い居酒屋「多むら」。今そこのテーブルを囲んでいるのは、アストロズのメンバたちだ。チーム一の人気を誇る浜畑のほか、キャプテンの岸和田。ほかに若手部員が7,8人もいて、君嶋のことを話題に賑やかに呑んでいた。
「君嶋を左遷させたのは、廃部論者筆頭の滝川の策略じゃないのか」
「左遷させたシロウトをGMにすることで、チームを弱体化させようとした狙いがあるのでないか」
「今季、二部リーグに落ちたらヤバイぜ」
浜畑が、「このままだと、チームから抜ける奴も出てくるぞ」、と言うと、「誰がそんなこと言ってましたか」、と岸和田が顔色を変えた。
浜畑は言葉を濁す。
「こんなことでジャパン狙えないだろ」
二人の会話に、若い者は聞き耳を立てる。
ジャパン――つまり日本代表の試合に出場することは、プラチナリーグのチームに所属する選手たちにとって目標の一つだ。
浜畑の口調には、自身、かってジャパンのジャージーを着ていた誇りと2年前のテストマッチを最後に代表戦に呼ばれなくなった悔しさが入り混じっている。
「テツ、なんとかしてくれよ。監督不在に、何も知らない素人GM。このままじゃ優勝どころか、マジで降格の危機だぞ」
浜畑の発言は、そのままアストロズの選手たちの本音に違いなかった。
選手たちが自分たちの成績不振をなぜか他人のせいにしている。
「第一章 ゼネラルマネージャー」 ―3ーー
(君嶋の最初の仕事は、前任者が考えていた監督候補からの監督人事)
翌朝、昨日より早く出社した君嶋は、前任総務部長の吉原から、すぐ着手してもらわなければいけない仕事が二つありますと言われた。
「一つはアストロズの監督人事です。残念ながら成績の低迷などを理由に、先日、監督の辞任が決まったばかりでして、私の任期中に決定できず、まだ後任監督の人選中です。もう一つは今年度のチーム予算案の作成です」
君嶋は、監督の候補はいるのですかと尋ねる。
吉原は、二人の候補のプロフィールを纏めた書類を手渡し補足説明をした。
「一人の竹原正光さんは年齢55歳。監督歴15年のベテランで、昨シーズンまで二部リーグのベアーズを率いていた。もう一人の高本遥さんは、一昨年選手を引退した後、海外でコーチングを学んでいた方です」
君嶋は、「監督によってチーム作りは違うもんですか」、と訊ねる。
𠮷原から「社長が代わるのと同じです」と言われて、君嶋は、「経営資源が同じでも、経営戦略が違うってことですか」、と聞き直すと、𠮷原は、まあそんなところですよと答える。
君嶋は、とりあえず面談のアポをお願いした。
「第一章 ゼネラルマネージャー」 ―4ーー
(もう一つの君嶋の最初の仕事はアストロズの予算案作成。大赤字の予算)
「チームの予算案は、今月中に経理部に提出しないといけません。一応、昨年度の予算案がありますので、それを参考にしてください。これがそうです」
吉原が目の前のファイルのページを開いて君嶋に見せた。
君嶋はそこに並んだ数字に目を丸くした。
吉原が大赤字ですというとおり、その赤字幅は16億円近く、君嶋の予想をはるかに超えるものだった。
トキワ自動車のような大企業しかラグビーチームを持てないわけである。
それは思った以上に大所帯だ。チームは総勢80人。うち選手は約50人だ。
ラグビーは15人でやるスポーツであり、一つのポジションに3人か4人の選手層が存在するということになる。残るスタッフの約30人には、ラグビー部部長も兼務する新堂工場長や君嶋本人も含まれるが、そうした管理職のほかに、コーチやマネジャー、トレーナー、理学療法士や管理栄養士、チームドクター、そしてーーー。それと、アナリストまでいた。総務部の佐倉多英である。
「ところで毎年、この予算案が通って来たんですね」
君嶋の感覚からすると、これだけの赤字が例年まかり通るというのは信じられない。
「島本社長の肝いりですから」
誰も反対しないのですかと訊ねると、
「とんでもない。滝川常務からはいつも大反対されています。ラグビー部なんか潰してしまえってね」
そうりゃそうだろう、と君嶋は思った。
この予算案を前にした取締役会が目に見えるようだ。
ひたすらラグビーを信奉する島本と、コストとしかみない滝川。すったもんだのの議論の末、島本が押し切り―—ーそんな構造に違いない。
「滝川さんはウチにとって本来、身内みたいなものなんですけどね」
吉原が意外なことを言った。
「あの方、広報部長時代、アストロズの副部長だったので」
「立場変われば意見も変わる、ですか」
吉原は大きく頷いて、「今はアストロズにとって天敵みたいなものです」、と言う。
(君嶋は、段々そうでないことが分かってくる)
「第二章 赤字予算への構造的疑問」に続く
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