『「ファーストラブ」のあらすじ』
第九章 殺意の否認
[環菜に、小泉裕二に会ってきたことを話す]
私は、面会室の環菜に、「手紙を書いたけど、小泉さんに会ってきました。彼なりに環菜さんの様子は気にしていたが、自分の社会的な立場だったり、家庭のことを考えての判断でしょう。面会に来ることはできないそうです」と告げた。
『裕二君、結婚しているんですか?』
「ええ」
『え、だって、あんなことした人が普通の女の人と付き合って結婚するとか意味がわからない。おかしくないですか?』
徐々に語気を荒げる環菜に、私は問いかけた。
「環菜さん。あなた、本当はわかってるのね。小泉さんとのことは初恋なんかじゃないって」
彼女は表情をなくすと、『なんだったんだろ』と呟いた。
「どうして自分の心の声を聞いてあげないの?」
『自分』、と頼りない声で問い返される。
「あなたがされたことは正しいことだったと思う?」
『正しい、かは分からないけど、同意した私にも責任はあると思います』
「あなた、彼が一緒に布団に入ろうって言ってきたとき、本当にそうしたかった? 夜中の密室で小学生の女の子が大人の男性からそう言われて、たとえ嫌でも断れたと思う?」
『でも、嫌、ではなかったと思うし、それに最後まではしないって』
「それはあなたが拒否したから? それで彼がちゃんと納得してやめてくれたの?」
環菜は混乱し始めたのか、指の爪を噛みながら、向こうが、と呟いた。
『向こうから、やっぱり止めようって。やばいからって』
「それはあなたの体や心を気遣ったというよりは、彼の自己保身のように私は感じる。あなたが本当に肉体関係を強要されたと訴えたかった相手は、賀川さんでもなければ他の大学の先輩でもなく、小泉さんだったんじゃない? 当時、誰かにその話を相談したことはある?」
環菜の唇が震え出した。私は様子を見守った。
『ハワイから帰ったお母さんに一度だけ……家出した話になって、どこにいたんだって言われて、それで、助けてくれた人の家に行ったけど、ちょっとなんか変だったって言ったら』
「お母さんは、なんて?」
環菜は一瞬だけ強く息をのむと
『まさかレイプされたんじゃないでしょうねって』と言った。
「それであんたはなんて?」
『違うって。じゃ問題ないじゃないって言われて。なにが変だったのかって訊かれても、どんなことがあったか詳しくなんて言えないし。おまけに心配かけたからってお父さんに謝らされて、それでまた嫌になって、だったら裕二君のほうが優しいからいいってなって。でも、だんだん、最後までできない代わりに、口とかで、してって言われるようになって、私なんだか物みたいだなって。でも悲しくて泣いたら冷たくされるし、向うだってそういうことしたくて私と会ってるんだと思って。それなのに、結局、そういうことしてるから別れるってなって、ぜんぜんっ、私にも意味わからなくて。でも先生、裕二君だって私のこと少しは好きだから付き合ってたんですよね? 本当に全く気持ちがなかったら、男の人だってそんなこと』
「愛情がなにか分かる? 私は、尊重と尊敬と信頼だと思ってる」
『私に、尊敬されるようなところがないから』
当たり前のように言い切る環菜は、たしかに空っぽの人物のようだった。でも、そうさせてきたのはまわりの大人たちだということを私たちはもう知っている。
「あなたはたしかに自分の父親を殺した。だけどその前に、あなたの心をたくさんの大人たちが殺した。あなたは嘘つきなんかじゃない。小泉さんにされたことを具体的に説明するなんて恥ずかしくてできないのは仕方ないことだし、お母さんの言葉によって、強姦されたと言うことでしか同情してもらえないし、被害者になれないと思ったんだと思う」
環菜はじっと黙ったまま涙を流していたが
『いっそ、無理やりされてたらって考えことはあります』、と打ち明けた。
「小泉さんとの交換日記はあなたが処分したの」
『日記なら。香子ちゃんが持ってるかも』
「その交換日記には、デッサン会に参加してた男性のことも書いてあったって小泉さんが証言してくれたけど、あなたはもう覚えてない?」
『それはたぶん、参加者じゃなくて、モデルの男の人のほうで』
「なにをされたの?」と私は訊いた。
『たしか、小5のときに、うちで忘年会してて。みんな酔ってて、その人がいきなり私に抱きついて来て、押し倒されて。でもみんな笑ってるから、嫌がっている自分がおかしいと思って』
「体を触られたりもした……?」
環菜は自信のなさそうな口調で、もしかしたら……と呟いた。
その光景を思い浮かべて不快を覚えた私は、環菜にあらためて問いかけた。
「モデルをやめたときのことは覚えてる? それを言い出すのはだいぶ勇気が必要だったんじゃない? お母さんは、あなたがバイト代も出ないのに働きたくないって言ったって話していたけど」
環菜の顔が奇妙に凍り付いた。
『バイト代とか、私、知らない』
「え?」、私は訊き返した。それから、モデルを止めたときのことをすぐに聞かなかったことを悔やんだ。
香子の話を聞いたときにも(あらすじ4/?の第三章)不自然に感じたことだったのに。
「あなたがそう言って、モデルをさぼるようになったのて。違うの?」
『あいつのほうから、やらなくていいって』
無意識に父親をあいつと呼んだ環菜は、信じられないという目をした。
「どうして?」
彼女はひどく苦しいことを打ち明けるように、浅く呼吸を繰り返した。
『最初は、ハワイの後で。腕に傷があるから、当分無理だった』
今度は私が事実を前にして黙る番だった。
『でも治ったら、また絵のモデルが始まって。見られて気持ちが悪くなると、自分でもわけわからなくなって、でも、そのおかげでまた休みになるから繰り返して、そのうちに傷の数が増えて消えなくなってきて、そしたら、もうモデルやらなくていいって』
自傷癖のある相談者は決して少なくない。けれど、そんな理由は初めてだった。
誰かに見てもらって異変に気付いてもらうためじゃなく、見られることから逃げるために。
彼女が黙ってしまったために、看守が面会を打ち切ることを告げて環菜に近付いた。
その瞬間、環菜が振り切るように手を強く振った。
看守が驚いたように彼女の肩を押さえつけた。私はとっさにガラスに張り付いて、止めてください、と声を出した。
強引に連れて行かれる環菜がせきを切ったように突然叫んだ。
『いうことなら全部聞いたのにっ、我慢したのに……どうして』
「環菜さんっ、あなたはやっと」
と言いかけたところで双方、強制退出になった。
私は拘置所で厳重注意を受けた。最後には、迦葉がやってきて、連れ出してくれた。
拘置所の正面玄関を出て広すぎる道を歩きながら、「ごめん。ありがとう」と迦葉に礼を言って、「あの子、はじめて怒った」と、迦葉に顔を向けて告げた。そして、私は、「はじめて声をあげて、感情を見せた」と繰り返した。
先ほど、環菜はひど過ぎると訴えた。それは彼女の話を聞いているときに私が最も怖さを感じた相手と同じ人、母親だった。
バイト代も出ないのに働きたくないと言ってやめさせられた。
母親がそう説明したことに対して、環菜は全く心当たりがない様子だった。
虚言癖―—ー。
それは本来誰に向けられるべき言葉だったのか。
「環菜さんのこと、動揺させてごめんなさい。もしかしたら前よりは自分のことを話せるようになるかもしれない。……」
わかった、と迦葉はしっかり頷いた。あとは任せろ、とも。
[環菜は本当のことを迦葉に告げ、由紀の面会も終わる]
クリニックのドアが開いた瞬間、室内の酸素がわずかに薄くなった気がした。
私は、「こちらへどうぞ」と迦葉を診察室へ招き入れた。
「殺すつもりはなかったって言い出した」
「環菜さんが」
迦葉は頷くと、「私は本当のことを言ってもいいですか?」て聞かれたよ、と続けた。
「本当のこと」、と私は小声で呟いた。ようやくここまでたどり着いたことを実感しながら。
「ただ裁判ではキツイよな。今から主張変えると、やっぱり心証よくないしさ」
と迦葉が本音を口にした。
「私は彼女を刺激しないほうがよかった……?」
彼は不意に笑った。
「『私は本当は殺すつもりなんてなかった。殺人罪で訴えられるのは不当だ。』環菜ちゃんがそこまで強く主張するようになるとは思わなかったよ。たしかに結果は大事だ。だけど、たとえ刑期が多少短くなったところで、納得いかない理由を押しつけられた記憶や理不尽は死ぬまで残る。どちらが幸せかなんて言い切れないしさ。本人が納得いくようやるよ。ただ、もうあまり日がないから、裁判に集中するために、由紀の面会はここでストップしてもらって、あとは完全に俺たちに任せてくれるか」
「うん分かった」
「次章」に続く