下町ロケット・ヤタガラス
「あらすじ」
「第八章 帝国の逆襲とパラダイムシフトについて」
-1-(「ダーウィン」のトラブルとプロジェクトの参加会社の離脱)
「ダーウィン」に遅れること三か月。帝国重工の生産ラインから上がったばかりの無人農業ロボットが、発注農家に届けられたのは7月初めのことであった。
開発コード「アルファ1」が改められ、製品名は、「ランドクロウ」。
準天頂衛星ヤタガラスにちなんでつけられた名前だという。まず、無人トラクター、そして夏の終わりに無人コンバインをリリースすることになっている。矢継ぎ早の投入は、少しでも遅れを取り戻そうという帝国重工の本気の表れ―――のはずであった。だが―――。
「ランドクロウ」の販売実績は、受注開始から計画を大きく下回り、いまだ回復の兆しすらなかった。このままでは「ダーウィン」に市場を席巻されていまうのではないか。そんな危機感を誰でもがいだいていたのであるが、一方で、思いがけない「噂」が耳に入ってきたのであった。
「『ダーウィン』なんですが、トラブルが報告されているようです」
聞きつけてきたのは、営業部のの埜村である。「突然止まってしまったりといった事例が結構あるようです」
「ダーウィン・プロジェクト」に参加している取引先からの情報である。
次に、同部の村木が挙手をした。
「『ダーウィン』の参加企業から、気になる話を聞きました。プロジェクトの参加会社が最近になって何社か離脱しているそうなんです」
会議室に怪訝な沈黙を運んできた。
佃は、「いまの話、もし新たな情報があったら、すぐに報告してくれ」と会議テーブルを囲んだ面々を見回した。
-2-(「ダーウィン・プロジェクト」から離脱する会社が急に5社も出てくる)
大田区で大橋塗装という会社を経営している大橋は、この日、重田を訪ねてくるなり、「ダーウィン・プロジェクト」から抜けたいと申し出たのである。突然の離脱表明であった。
大橋は目を逸らして、「ウチとして協力したいのは山々なんだがね、結構手間暇かかる割に仕切値は安いだろ。ウチがやらなくても他で出来るだろう。ならば、この忙しいときにお手伝いする必要もないんじゃないかという結論になってね」という。
重田は抜けられると困ると粘った。しかし、大橋は、こっちも商売だと重田が止めるのも聞かず、逃げ出すように出て行った。
これで5社目の離脱だった。
約300社が参加する一大プロジェクトだ。離脱者が出ること自体驚くに値しないし、ある程度の予測はしていたつもりである。むしろ、いままで誰も辞めなかったのが不思議なくらいだった。
それが、ここに来て離脱者が続出するとは。「いったい、どういうことだ」
釈然としないのは、いずれも理由に納得できないからだ。
たしかに、誰もが忙しいのは事実だろう。発注価格が安いといわれればその通りだ。しかし、それだけのことで、ハシゴ外しのような離脱が続くのは不自然だ。何かある。
重田が、その理由を知ることになったのは、それから数日後のことであった。
重田に電話をかけて在社を確かめ、伊丹が飛んできた。
「さっき高岡マシナリーの高岡社長がうちに訪ねて来まして、プロジェクトから降りたい」といわれたと。
まさか。唖然とした重田に、伊丹はさらに思いがけない言葉を投げつけた。
「これは的場の仕業だよ」
重田は、しばし言葉を失い、どういうことだと問うた。
「あんまり納得がいかないんで、高岡社長を問い詰めて口を割らせたんです。すると、『ダーウィン・プロジェクト』に協力するなら、今後の取引を見直すと帝国重工が通達して来たと。ほかの下請けにも同じ対応をしているらしい。帝国重工の知り合いに聞いたんですが、指示を出しているのは的場でした」と伊丹は告げた。
重田の顔はゆっくりと怒りの表情へと変わっていき、「高岡マシナリーが離脱したときの影響は」と尋ねる。
「代わりを探すのに時間がかかり、数社に声をかけて見積もりを出させて、さらに品質チェックまでとなると、1か月はゆうに―――。それに在庫はひと月半しか持ってない。下手をすると、生産ラインが止まります」
重田は鋭い眼差しで部屋の空間を睨み付けた。
伊丹は続けて、「我々のサプライチェーン(製造工程)を破壊して、製品供給をストップさせる気ですよ、的場は」という。
重田は暫く黙考して、眼差しを伊丹に向けた。
「ウチの法律顧問を紹介したい。ぜひ来てくれ」
その夕方、約束通り重田を訪ねた伊丹は、重田と向かい合っている人物を見て絶句した。
「いつ出て来たんです」
「つい3か月ほど前に」といって、中川は伊丹に名刺を渡した。
――― ㈱ダイダロス 法律顧問 中川京一
-3-(「ダーウィン」の出荷停止にほくそ笑む的場)
―――町工場トラクター「ダーウィン」、出荷停止
その新聞の見出しは、佃を始め佃製作所の社員たちに、衝撃をもって受けと止められた。
金曜日の夜、佃製作所週末恒例の懇親会でのことだ。
的場が「ダーウィン・プロジェクト」の協力企業に圧力をかけている―――。
その後の情報収集で辿り着いたのは、驚愕の真相であった。
「的場さんの本領発揮ってとこですか」
山崎が皮肉めいた。「非力な相手を直接攻撃してバラバラに破壊すると。こっちまで本物のヒール役になった気分ですよ」
「手柄のためにはなりふり構わず―――それが的場流らしいが」
佃もまた険しい顔をする。
「結局、的場さんには技術が評価できないんだよ」
冷たい口調でいったのは島津だった。「そんな卑怯な手を使わなくても、ウチのエンジンとトランスミッションがあれば、『ダーウィン』には勝てるのに」
「ここまで、うまく行くとはな」
薄笑いを浮かべた的場が投げた新聞には、「ダーウィン」出荷停止の見出しが躍っていた。
下請けの連中は皆震え上がって従いましたと、賛嘆の表情の奥沢に、
「下請けなんてのはな、結局、ウチなしではやっていけない。その程度の連中なんだ」
権高に的場は言い放った。下請けを見下ろす的場の"殿様意識"は、機械事業部時代に培われたものだ。
「『ダーウィン』を発注した農家からは、不安の声が高まっているようです。中には発注を取りやめる農家も出ているとか」といって、自分の仕掛けた戦略に的場は満足し、得意顔を見せた。
-4-(殿村家にモニター用として「ランドクロウ」が届く)
ようやく、殿村家に帝国重工の無人農業ロボット「ランドクロウ」が届けられたのは、7月の終りであった。
「ついに来たか」
帝国アグリ販売の運転用トラクターが到着するのを、殿村以上に心待ちにしていたのは正弘だ。
佃製作所が殿村に送ってくれた「ランドクロウ」は、70馬力。しかも、土壌成分分析機能付きローターといったICT農業の最先端をいく装備が付いている。
まず、帝国アグリ販売の担当者が殿村家の地図データをパソコンに取り込み、次に作業の内容や時間指定などを設定する。取扱い方法を教わるのに半日。合わせて一日がかりの導入作業だ。
殿村に任せきりにするのかと思いきや、普段、スマホすら満足に操作できない正弘も作業に付き添い、パソコンを前にした説明に熱心に聞き入った。
「ランドクロウ」は、殿村の農業を根本から変えた。
父が田んぼに出られるようになり、その父はさらに、自らの経験をもってしても驚くべき発見を日々体験するようになった。
トラクターが収集してくる正確なデータと、長年米作りをしてきたベテランの勘
―――その差だ。
「オレの勘の、四つにひとつは間違ってたな」と正弘は語っていた。
ICT農業の効率とは、単に働き手の作業を減らすだけでなく、田んぼ当たりの収穫高を上げるという意味もあることも、殿村が学んだことのひとつだった。
「よお、殿村。よお」
草刈り機で畦道を刈っていた殿村は、保護用のサンバイザーを上げた。
稲本だ。農林協の吉井を軽トラに乗せている。
「なんだよ、あれ」
圃場を無人のまま走行している「ランドクロウ」を稲本は顎で示した。「もしかして、帝国重工のやつか」
「そうだけど」、草刈り機のエンジンをかけたまま、殿村は首にかけたタオルで顔の汗を拭う。
「どこで買ったんです」、聞いたのは吉井だ。「ランドクロウ」は農林協でも扱っているので、買うならウチで買ってくれたらといいたいのだろう。
「借りものだよ」
実際には、リース料も賃貸料も発生しないモニター扱いだが、面倒なので、そう答えた。
-5-(「ダーウィン」の原因不明の不具合が販売代理店のヤマタニにも伝わる)
農業機械大手のヤマタニ浜松工場の工場長室に、本社の販売課長の南雲賢治が朝早く入室した。
10町歩ほどやっている専業農家を数人案内しての工場見学で来場したことを説明するためである。
説明が終えた南雲に、入間は、「『ダーウィン』が欲しいって話になるんじゃないの」と冗談をいって、「売れても純正でないから儲けが少ないからな」という。
南雲は確かにといいながら、「ダーウィン」にも問題がありましてと、気になることをいった。
「製造停止のことか。新聞で報道されていたな」といいながら、ひと月ほどで再開するのではと、入間はあまり問題にしていなかった。
私が申しあげたいのはと、南雲は声を落とした。
「『ダーウィン』にトラブルの報告がちらほら上がってまして。製品化の初期段階であることを差し引いても、ちょっと多いかなと」
初耳である。入間は聞いた。「いったい、どんなトラブルだ」
「通信関係が一つ。キーシンの自動走行制御システムが時々、フリーズするというクレームが入ってきています。それと、こっちのほうがより深刻ですが、突然動かなくなるトラブルですが既に2件、報告されています。これはウチの販売網で扱った車体に限った話なのでーーー」
「動かなくなるってのは、どういう状況なんだ」
「作業中にエンジンストップしたまま動かなくなり、手動に切り替えてもエンジンはかかるが動かないのです」
南雲の話に、「トランスミッションの故障かな」と入間は呟く。
「プロジェクト側では、それを誘引しているのはキーシン側に起因するとか、投げ合いしているようです」
「原因が特定できていないということか」
入間は難しい顔で考え込んだ。やがて顔をあげると、
「そのトラブルルの状況、早瀬君は知っているんだろうね」
そう尋ねる。早瀬は、ヤマタニの営業担当役員だ。「もし、まだだったら早急に報告書を上げてくれないか」と指示をした。
-6-(「ダーウィン」の不具合を質す前に、的場への鉄槌)
深刻な表情をしている堀田が、伊丹行き付けの店で伊丹と向き合っていた。
「多すぎるな、たしかに。氷室には見せたのか」
トラブルに関する報告書である。ヤマタニ、そして農林協から寄せられたトラブルの件数と内容を堀田たちがまとめたものである。
「見せましたが、だから何だってと突き返されただけです。あの人完全に逃げています。氷室さんに見直しを指示していただけませんか」
「どこに不具合があるのか、大体の見当はついているのか」
「私はわかりせん。氷室さんも分かってないと思います」と今までの調査の内容の詳細を話した。
耳を傾いていた伊丹が、そのとき顔をあげた。
「ランドクロウのトランスミッション、リバースエンジニアリングできないか」
リバースエンジニアリングとは、他社製品を分解し、構造や技術を検証する作業のことだ。
伊丹は続ける。「ウチのトランスミッションは島津の設計だ。ランドクロウもそうだ。比較すればどこが問題なのかわかるんじゃないか」
「ですが、『ランドクロウ』だって、同じ不具合が出ている可能性も―――」
伊丹が口にしたのは、北見沢での島津とのやりとりだ。(第七章 -3- 参照)
―――伊丹君ってさ、何にも分かってなかったんだね。
―――あれで本当にいいと思ってるわけ?
「シマさんは、あのとき、このトラブルを予見していたということですか」
順風満帆で進んできた「ダーウィン・プロジェクト」だが、ここに来て思わぬ困難に直面しようとしている。帝国重工の妨害しかり。そしてこの、原因不明の不具合だ。
「このままでは『ランドクロウ』に追撃を許すことになるかも知れません」
堀田は深刻な表情でいった。「早く不具合の原因を突きとめて何とかしないと………」
そのとき―――。
「そう簡単にさせるものか。帝国重工には―――いや、的場にはまもなく鉄槌が下がる」
意外なひと言を伊丹が吐き出す。
伊丹が何を言っているのか、堀田にはまるで見当がつかない。
「的場は―――もう終わりだ」と底の知れぬ笑いを、伊丹は浮かべた。
-7-(的場の幻の夢が消される)
的場の帰りを嬉々とした表情で待っていたのは、製造部長の奥沢であった。
「『ダーウィン』のサプライチェーンは、大打撃を受けている模様です。いまだダイダロスもギアゴーストも、代替企業の選定中とのことで、再開の目途が立っておりません。ヤマタニも農林協の販売網でも、受注をストップさせているとか」
「まだまだこれからだ、奥沢」
的場は炯炯とした目でいった。「さっき帝国商事の岩本さんと話をしてきた」
岩本は、帝国商事の海外事業を統括する役員である。
「無人農業ロボットで我々が目指す事業の版図は拡大だぞ。私が救うのは、世界の農業だ。古い農機具に立っている世界の農業に産業革命を引き起こす。想像してみたまえ。グレートブレーンズ(北アメリカ大陸の中西部の大平原)を隊列を組んだ『ランドクロウ』が進む様を。フランスやイタリヤ、ベルギー」
「中国、ウクライナーーー」
奥沢が追従してみせる。奥沢の脳裏に、居並ぶ役員たちに指示を飛ばしている"社長"的場の姿が浮かび上がった。
「そうだ。そのときこそ製造部の出番だぞ、帝国重工製のエンジンとトランスミッションが世界の穀倉地帯を走り回る日が遠からずやってくる。奥沢」
勝利は目前だ。オレの勝ちだ。
笑いを浮かべた的場を現実に引き戻したのは、ドアをノックする音だった。
秘書を押しのけるようにして、広報部長の多野が、ずかずかと入室してきた。
「おい、失礼だろう」と奥沢が荒げた声を出した。
多野は応えず、手にした書類を的場の前に置いた。
「ニュースのプリンアウトです。先ほどネットにアップされました」
一瞥した的場の表情から、すっと感情が抜け落ちていった。
―――帝国重工下請け20社、公正取引委員会へ下請法違反申し立て。
「ダーウィン・プ ロジェクト」妨害
…………。
「それともうひとつ―――」
呆然自失の的場の前に、多野が新たに差し出したのは、レポート用紙数枚分の書類だ。
「『週間ポルト』からの質問書です。『ダーウィン・プロジェクト』を妨害するために、我が社がどんなことをしたのか、おそらく下請けの誰かが喋ったんでしょう。どれも具体的な質問ばかりです。さらに下請け叩きの主導者として、あなたの実名入りです、的場さん」
一瞥した的場から、
「ふざけるな。こんな記事、握り潰せ」
「無理です、それは。無理なんですよ。そんな簡単なものじゃない」
激昂した的場に、多野も大声で言い返す。
「沖田会長のところへ行って下さい。すぐ来るようにとのことです」
的場の返事を待たず多野はさっさと部屋を出て行く。
-8-(的場への鉄槌)
社長室に飛び込んできたのは、営業の江原だった。「いま電話で聞いたんですが、帝国重工が下請違反で公正取引委員会に申し立てをされたそうです」
火曜日のことである。
「どこで聞いた」
「加木屋精密さんがその申し立てに加わったとかで。申し立てをしたのは、帝国重工の製造部の取引先ばかり20社で半分以上が『ダーウィン・プロジェクト』にも参加している会社だとか」
佃と打ち合わせていた経理部の迫田が「申し立ての段階でどうしてそれがわかるんです」と問うた。
「ネットのニュースになってんだよ。見てみろ」
「本当か」と佃は思わず聞き返した。
「それに、この申し立てを段取りしたのはダイダロスで、そのダイダロスの法律顧問に中川京一がなっているそうです」と告げた。
「下請法に違反したからといって刑事罰があるわけじゃないですが、これを社会的制裁を狙った申し立て以外の何物でもないと思います」
経理の迫田は仕事上、そうした法律に詳しい。
江原がいった。「スキャンダルを極端に嫌う帝国重工にとって、この記事は許しがたい屈辱です。そして、これは、『ダーウィン』側が的場俊一に繰り出した強烈なカウンターパンチですよ」
-9-(会長が的場に"辞任"の言を放つ)
会長室の重厚なデスク前に的場は立っていた。
「君にとっては不本意な事態かも知れない。だが、会社にとっても、それは同様だ。こんなことがあってはならないし、仮にあったとしても、絶対に世間に知られてはならない。帝国重工は産業界を牽引してきたトップ企業としての品格、模範となり目標となる企業の鑑であり続ける義務がある。社会の中で、その存在が認められ、必要とされるために、我々の先人達は血の滲むような努力と研鑽を重ね、現在の我が社はその土台の上に存在している。その尊い努力を、君は踏みにじった」
怒りと憎しみに満ちた沖田の眼差しが的場を深く射貫く。
「この会社に、もう君の居場所はない」
殺気にも似た気配に威圧されて息を呑んだ的場に、沖田の言葉は一気に放たれた。
「今すぐ、辞任したまえ」
「第9章 戦場の聖譚曲(オラトリオ)」に続く