[第一話 「ばかやろう」が言えなかった娘の話」
<詳細なあらすじ>
3. <弥生は過去に戻り、母の過去のより苦しい人生を知り、
文句は言えなかった>
眩しさを感じた瞬間、曖昧だった手足の感覚が戻ってきた。
ゆっくりと目を開けると、そこにあるのは、昼間見たものと同じ、雲ひとつない青い空と函館港だった。
(過去に戻ってきた) 弥生は一瞬で理解した。
目の前にいた幸という女の子もいない。代わりにいるのは、見たこともない20代後半ぐらいの男が二人と、女が一人。そして、カウンターの中でニコニコと微笑む、弥生が持っていた写真に写っていた女である。
そのユカリと一瞬、目が合った。
だが、ユカリは小さく頷いただけで、目の前の3人との会話を途切れさせることはなかった。
「それで、コンビ名は決まったの。何て名前」
「ボロンドロンです」
弥生は、その名前を聞いて驚いた。ボロンドロンといえば、ここ数年で一気に有名になったお笑いコンビである。それが確かなら、背の高い男がボケの林田で、銀ぶちの眼鏡がツッコミの轟木ということになる(第二話で登場)。弥生ですら知っている。だが、自分が知るボロンドロンはこんなに若くない。
間違いない。ここは過去の世界である。
「ボロンドロン。いい名前ね」
ユカリはそう言って、「一番。優勝。一等賞。絶対売れる」と続けた。
二人の表情が爆発的に明るくなる。
…………。
そろそろ時間だよと背後に控える女が声をかけた。迫っているのは飛行機の時間である。
「世津子ちゃんもついて行くの」
「はい、もちろん」と、世津子と呼ばれた女は迷いなく答えた。
「頑張ってね」
「頑張るのは、こいつらですけどね」と、世津子はにやりと笑った。
突然、ユカリが弥生のほうに顔を向けて、「未来から来たの」と声をかけた。
何の挨拶もない声かけだったので、弥生も思わず、「あ、はい」と答えてしまった。
それを機に、轟木たちは飛行機の時間があるからと喫茶店を後にした。
カランコロロン
ユカリから名前を聞かれ、「弥生、です」と答える。
「素敵な名前ね」とユカリから言われて、「嫌いなんです、この名前」と言う。
「どうして、かわいいじゃない」
「この名前を付けた両親のことを恨んでいますので……」
恨むという言葉がでた。しかし、ユカリはあわてない。
「じゃ、その名前を付けたご両親に、文句でも言いに来たのかしら」
と、興味深そうに目を輝かせた。
弥生は、「何なのこの人」と、思わず心の声がそのまま口から出た。
しかも、文句を言うべき相手はまだ姿を現さない。
もしかして、戻ってくる日を間違えたのか。といっても、自分から戻りたい日を告げておらず、聞かれてもいない。写真を持っていたから、この写真を撮った日に戻りたいと思っていただけだった。
それに、問題は日だけでない。時間である。コーヒーは15分もあれば冷めきってしまうだろう。
弥生は写真に柱時計が写っていたことを思い出した。午後1時30分となっている。
今の時間はと、弥生は柱時計を見ると、午後1時22分。8分前だ。
弥生は思わずコーヒーの温度を確かめた。熱くはないが、まだ冷めきるには時間があるる。弥生は安堵のため息をついた。
カランコロロン
弥生に緊張が走る。
(やっと会える) そう思うだけで弥生の呼吸は荒くなった。
「いらっしゃい、あら、あら、あら」
ユカリは頓狂な声をあげながら、赤ん坊を抱えた瀬戸美由紀と、夫の敬一を迎え入れた。
「おめでとう、今日だったわね、退院。わざわざ会いに来てくれたの。マー、嬉しい。こんな嬉しいことはないわ。明日世界が終わってもかまわないくらい嬉しい」と、一気にまくしたてた。
「相変わらず、ユカリさんは大げさだなあ」
敬一はそう言って、大きな声で笑った。隣で美由紀も笑顔を見せる。
当然ながら、二人は写真に写っていた格好そのままで、美由紀に抱かれた赤ん坊は薄水色の産着に包まれている。
美由紀は、そんな様子を呆然と見つめる弥生の視線に気づいたらしく、微笑みながら小さく頭を下げた。
弥生が感じたのは怒りだけでなかった。生きている世界に大きな隔たりを感じていた。
一方は幸せで、一方は不幸せ。
(自分だけが、なぜ、こんな嫌なめに合わなければならないの)
もう3人を見ているのも辛い。 そう思ったときである。
「一人で生きなきゃいけないなら、死んだほうがましだと思いました」
そんな女の湿った声が、弥生の耳に飛び込んできた。
美由紀がユカリに向かって深く頭を下げているのが見えた。
声の主は、弥生の母、美由紀である。
美由紀は顔をあげて話を続けた。
「ユカリさんには何とお礼を言えばいいのか」
弥生は、なぜ、美由紀がそんなことを言い出したのか分からなかった。
(なに、どういうこと) 弥生の耳は、美由紀の言葉に釘付けになった。
「4歳のときに両親が失踪してしまい、親戚中をたらい回しにされた私には、どこにも居場所がありませんでした」
弥生は、自分の耳を疑った。まさか、自分の母親が幼少期に捨てられていたなんて知らなかったからである。
「中学を出ると、叔父夫婦にはタダでご飯を食べさせるわけにはいかないと進学は許してもらえず、働きはじめたのに、私は不器用で、職場では失敗ばかり……。職場で苛めにもあい、辛くてやめると、我慢が足りないのだと責められ、挙げ句の果てには家を追い出されてしまいました」
「ひどい話だわ」
「なんで自分だけが、こんなにも苦しい目に合わなければいけないのか。どこへ行っても人並みに立ち回れない自分が悲しくて、私には生きてる価値なんてないんじゃないのかなって、そう思っていました」
美由紀の話を聞いて、ユカリの目にはうっすらと涙が浮かびはじめた。
「5年前の冬、もし、あの日、湾に身を投げようとしている私にユカリさんが声をかけてくれなかったら………」
「あったわね、そんなこと。無理やり連れて来ちゃったのよね。うんうん、覚えてる」
「本当に有難うございました」、そう言って美由紀はもう一度、深く頭を下げた。
初めて聞く話である。
美由紀も自分と同じように幼い頃に両親と別れ、中学を出て働き、虐められ苦しんでいた。そして、まさか、死のうと思ったことがあるなんて………。
(それなのに) 自分と違う。弥生は不平不満の人生を歩み、美由紀はちゃんと幸せを掴んでいる。何があったのか。自分と美由紀は、何が違ったのか。
弥生は、息をするのを忘れてしまうほど、二人の話に集中した。
「頭を上げて」と、ユカリ。ユカリの目が美由紀に優しく微笑みかける。
「よく、あきらめないで頑張ったわね。よく頑張った。魔法じゃないんだから、あの日、私があなたに声をかけたからって、現実が一変したわけじゃないでしょ。苦しい状況は何ひとつ変わらなかったじゃない。でも、未来に向かって頑張ろうって、幸せにならなきゃって頑張ったから、今のあなたがあるんでしょう」
美由紀の目から涙がこぼれる。
「そうだ。この子の、名前は」
「弥生」と、美由紀。
ユカリは、「そう、弥生ちゃんていうの。素敵な名前ね」と、赤ん坊の弥生のほっぺを撫ぜた。
ボー……ンと柱時計が1時30分の鐘を打つ。
敬一がカバンからカメラを取り出し、「記念に一枚、いいですか」と言った。
「そうね、じゃ」とカメラを受け取ると、弥生の前に歩み寄って、「撮ってもえるかしら」と言う。
「お願いします」と、美由紀が笑顔で頭を下げた。
「わかりました」と、弥生はファインダーを覗きこんだ。そこには、ずっと、ずっと眺めていた写真のままの絵が広がっていた。
弥生は、静にシャッターを切った。
美由紀のお礼に弥生は「いえ」と顔を伏せて答えて、カメラをユカリに渡した。
ユカリが、「文句は言わなくていいの」と、意地悪な顔で囁いた。
「もういいんです」と弥生は答えて、コーヒーカップに手をのばした。ずいぶんぬるくなってしまった。
(私も、諦めないで頑張れば、もしかして………)
弥生は、一気にコーヒーを飲みほした。
天井に向かって上昇する弥生の姿を美由紀たちが見上げているのがわかる。もう二度と会う事とは無いだろう。弥生は、薄れていく意識の中で、思わず叫んでいた。
「お母さん。お父さん」
その言葉が届いたかどうか………。
「4. <美由紀がユカリに誘導され、未来に来て、……>」に続く