下町ロケット・ヤタガラス
「あらすじ」
「第七章 視察ゲーム」
-1-(的場にとって汚名返上の好機となる首相視察は如何に)
佃、野木そして財前は昨日、北見沢市入りした。佃製作所と帝国重工のスタッフも三日前に先乗りして首相視察に向けたデモ走行の準備をしている。昨夜は全員で打ち合わせを兼ねた壮行会を開いた。
爽やかな五月の一日である。初夏を感じさせる日射しが注いでいる。
首相の来場予定は午後1時45分。午後2時から「アルファ1」と「ダーウィン」各25分の持ち時間でデモンストレーションを実施する予定だ。
首相は視察の後、東京での会合に出席するために空港に向かうことになっている。
朝からデモの準備で休む間もなかったが、正午過ぎにはすべて完了し、首相の到着を待つまでに調っていた。
「佃さん」と声をかけられ、佃が「ダーウィン」から視線を戻すと、来場してきた的場が財前の後ろに立っていた。
的場はトラクターを見せてくれと、「アルファ1」に向かって歩き出した。
総責任者という立場ではあるが、的場が現場に来ることはめったになかった。佃の知る限りでは、「アグリジャパン」を含めて今日で二度に過ぎない。打ち合わせの席にも、また圃場での走行実験にも顔を出したことはない。
熱意なき君臨。的場にとって無人農業ロボット事業は、単なる出世の道具に過ぎないのだ。
しかし、その道具は、「ダーウィン・プロジェクト」の出現によって自らをも傷つける諸刃の剣になった。週刊誌のスキャンダル、「アグリジャパン」での失態は、虎視眈々と社長の座を狙う的場にとって痛恨ともいえる汚点である。
今回の首相視察は、的場にとってようやく訪れた汚名返上の好機なのだ。
帝国重工のテントの傍らに置かれた「アルファ1」の前に立ちた的場は、
「ずいぶん小さくなったな」
そんな感想と共にしげしげと眺めた。「これがよくて、この前のがよくないのは、どうにも私には納得できないね。これだったら、あれとそう変わらんじゃないか」
向うに見える「ダーウィン」を顎て指す。
財前は、「大きさは同じですが、佃製作所のエンジンとトランスミッションの性能は、『ダーウィン』よりも上です」と説明する。そのあとを追って、島津が、佃製作所のそれは最新型だと告げる。
的場に付いて来ている製造部長の奥沢は、こんな連中に頼らなければならなくなったのは、悲劇だと言ってのける。
「まさしく悲劇だ。ところが、その悲劇は藤間社長のシナリオでね。老害というのか、最近、あの方がでしゃばった事業でうまくいった例(ため)しがない。もし、このダウンサイジングが失敗したら、これは藤間社長のミス以外の何物でもない」
的場は憎悪に満ちた一瞥をトラクターに向けると、さっさと背を向けて場を離れて行く。
「社長、ちょっと遅いと思いませんか」
山崎は、首相の到着予定時刻が10分ほど過ぎていることに気がついた。
ようやく市の職員が知ららせに来たのは、それから20分ほども後のことであった。
-2-(首相視察のデモは「ダーウィン」だけとなる)
「すいません、責任者の方、いらっしゃいますか」
腕章を巻いた市の職員が、テントに飛び込んできた。
私ですがと財前が名乗り出ると、
「浜畑首相はいま知事と歓談されていますが、かなり時間が押していて、このあと、無人農業ロボットの視察は当初予定していた時間の半分もない状態でして、首相のたってのご希望で、今回は『ダーウィン』のみのデモということでお願いします」と告げた。
その場に居合わせた全員が顔色を変えた。
財前が、「時間を半分にするとか、一緒に行うとか、そういうやり方もあるはずです」と抗議した。
そのとき、後ろから突如、的場が出てきて、「君、それはないんじゃないか」と詰め寄った。
そして、浜畑が近づくのを待って自分から話しかけた。
「帝国重工の的場と申します。もしよろしければ、私どものデモをご覧になりませんか」
ダメ元の申し入れである。
首相は、時間が押していると予想とおりの返事をしたあと、「あなたが的場さんですか。あまり中小企業を虐めないでくださいよ」と思いがけない言葉が出、周囲から笑いが起きた。
首相は、さっさと的場の前から通り過ぎていく。後には、怒りと屈辱に震える的場だけが残された。
首相のひと言を生んだのは、当然、「週間ポルト」の記事だ。
そのときだ。「的場さん。的場さんよ」、ひとりの男が近づいてきた。
「『ダーウィン・プロジェクト』の重田です。重田工業の重田といったほうが分かり易いかな。その節は大変お世話になりました」
痛烈な嫌味である。的場は怒りの色を浮かべた目を重田に向けたまま応じることなく、隣にいる男の顔を見て眉をそ顰めた。
「伊丹、お前か」
「お久しぶりです。的場さんに厄介払いされてから、重田社長と意気投合しまして」
「それで? 君たちはこんなことで私に仕返しでもする積りなのかね。君の会社が行き詰まったのも、お前が機械事業部をお払い箱になったのも、誰のせいでもない、すべては自分のせいじゃないか。他人のせいにしてもらっては迷惑千万だな。何を言っても、負け犬の遠吠えにしか聞こえない。では失礼」
的場が背を向けかけたとき、重田の低い声が、その動きを止めた。
「オレたちはあんたを、徹底的に叩きつぶす。よく覚えておくんだな」
-3-(「アルファ1」の不戦敗になったが、性能は勝っていた)
「ダーウィン」の25分のデモはそつなく終わり、゚盛大な拍手が沸いた。浜畑首相も立ち上がって手を叩いている。
首相が会場を後にすると、多くの客も動き出した。
「帝国重工さん、そろそろお願いします」
市の担当者からいわれ、遠隔操作のパソコンに野木がスタート時間を入力した。
島津は製作者としての眼差しで、「アルファ1」を見つめている。
「アルファ1」は客が少なくなった閲覧席の前を通って圃場へと向かっていく。
圃場に入った。土壌センサー付きのローターが回り始めると、あらかじめ準備したモニターに成分表示が刻々と送り込まれる。
客からの反応は、当初受ける予定にしていたものと比較すると、無いに等しかった。
「話になんねえな。不戦敗だ」と軽部は愚痴を言った。
しかし、すべてを見終わった島津は晴れ晴れとしていた。「とっても良かったと思うよ。『ダーウィン』なんかよりもずっといい」とはっきりした物言いだった。
「シマちゃん」
声をかけた伊丹が立っていた。
「どうだった、ウチのトラクター。良かったろう」
島津は間を置いて、
「ホントにあのトラクター、売るの」という。
「どういう意味?」
「言葉通りの意味。伊丹君って何もわかってなかったんだね。あれで本当にいいと思ってるわけ?」
伊丹がまた何かいいかけたとき、立花から声がかかり、島津はさっさと伊丹に背を向けた。
-4-(的場の生い立ち。「ダーウィン」に遅れる「アルファ1」の納車時期)
その翌朝、テレビチャンネルをザッピングしながら、「なんだ、テレビに映るからと言っていたのに、紹介されてんの「ダーウィン」ばかりじゃないの」と娘の利菜が言っていた。
佃が、「仕方が無いだろう。我々がデモ走行する前に首相が帰っちまったんだから」というと、「的場さんが問題なんだよ。あの人にはモノを売るノウハウなんてない。あるのは社内政治力だけ」と利菜は一端の口を聞く。
「なあ、利菜。的場俊一というのはどういう人なんだ」
改めて佃は問うた。あそこまで貪欲に出世を目指す男の本性とは何なのか。
利菜は、聞いた話だとひと言断って、知りうる的場俊一の人となりを語り始めた。
的場の父親は、東大法学部卒の旧大蔵省の官僚で、将来の次官候補と期待されるエリートだった。自分たちはこの国の支配階級で、下々の人々を導く存在、民間企業は下僕に過ぎないという偏った考えを持っていた。
そんな父親は的場にも厳しく、的場は褒められた経験はおろか、認められた経験も一度もない。的場の中で、父に対する対抗意識が芽生えたのは、慶應への進学を決めたときである。「なんだ私立か。上司に顔向けできないな、みっともない」という父の言葉を聞いたときだった。
以来、的場は父への復讐のため、とりつかれたように出世街道をひた走ることになる。しかし、的場が機械事業部長に昇進したころ、的場の父はあっさり脳梗塞で逝ってしまった。
父のの死と共に自分の人生そのものが意味を失い、方向感を見失って漂流し始めた。しかし、「あなたは今まで通りやればいい。生き方なんて変えられない。人生なんて所詮そんなもんよ」と毅然とした態度で言われた母の言葉は、的場の迷いや悲しみを打ち消して余りあるほどの衝撃であった。
それは同時に、的場俊一が的場俊一であり続けることを決定づけた瞬間であった。
「父への憎しみが仕事の原動力か。悲劇以外の何物でもないな」
利菜の話を最後まで聞いたあと、佃は疲れた様子で首を横に振った。
利菜は、「的場さんと一緒に仕事してた人が同じ職場にいて、酔っぱらうと部下にそんな話をするらしい。同情してほしいのか、理解してほしいのか、聞かされる人はたまったものじゃないよ」という。
そういえば財前もまた、的場の部下であったことがあるという話を佃は思い出した。
その財前から、無人農業ロボット販売計画が決まったと聞いたのは、それからひと月ほど過ぎた日のことであった。
「正式に発売日が決まりました。今年10月から受注を開始し、納車は来年7月からです」
佃は表情を引き締めた。ところが、
「同じ7月だとされていた『ダーウィン』の納車が3か月ほど早められるそうでして」といわれて、その言葉に佃は眉を顰めた。
「もしかすると、一杯食わされれ田のではないかという気がします」と財前はいう。
「つまり、最初から『ダーウィン』のほうは4月で動いていたということですか」
驚いた佃に、財前は可能性があると頷いた。
-5-(的場の反撃)
「無人農業ロボットの受注は芳しくないそうだが、理由を説明してくれないか」
役員会の席上、的場に質問を寄越したのは専務の織田であった。
「実は、競合他社が予想に反して早期の納車となりました。そのため、当初、我が社の製品を購入するであろうと予測された農家の需要がそちらに流れてしまったようです。『ダーウィン』は、農林協やヤマタニの協力で、全国に張り巡らされた販売網が代理店として機能しております。一方我が社の場合は、農林協のみに依存していて、販社として設立した帝国アグリ販売がまだ十分機能していません。この差も大きいかと」と的場は小さく詫びた。
理由はともかく、出足は惨敗である。だが、ただ負けたというだけで納得するような役員たちではない。そこですかさず的場は続けた。
「また当初、我が社では大型農業ロボットを企画しておりましたが、途中で『ダーウィン』と競合する小型のものへと変更しておりまして、その混乱も生産遅れの原因になっていると報告を受けております」
役員の何人かが、藤間を遠慮がちに見るのがわかった。
「まだ販売は始まったばかりだろう。多くの農家は、無人農業ロボットの実力は認識していても、現時点ではまだ買ったものか様子見をしているはずだ。道交法の問題もあれば、農水省の指導もあって、現状では無人農業ロボットの実力の百パーセント出せる環境にはない。本当の天下分け目の戦いは、そうした問題がクリアされた後になるはずだ。それまでに君は、我が社の販売網の構築を急いでくれ。そして、帝国重工ロボットの評価を高めることだ。これは短期決戦ではない」
出足の躓きを責められはしなかったことに、ほくそ笑んだ的場だが、会議の後になってそれを叱責したのは、会長の沖田であった。
会長室に呼ばれた的場に、
「君は次期社長候補なんだぞ。それが何だ、法整備を待てだの短期決戦ではないのだと、そんな悠長なことでいいと思っているのか。それでは藤間の路線を暗に認めたことになるじゃなすか。劣勢であればあるほど、成功すれば君の経営者としての評価は確固たるものへ押し上げられる。強引だろうと前例がなかろうと、強引に道を切り拓け」
沖田は、的場の心にねじ込むように指示した。
その通りだ。自分に大切なのは、母に言われたように、的場俊一であり続けることだったはずだ。
会長室を出た的場は、真直ぐに製造部長の奥沢の執務室に向かった。
「製造部の下請けで『ダーウィン』に関与している会社を全て洗い出せ」
「リストを作成して何を―――」と中途半端な指示に奥沢は問うた。
「ライバルに荷担しているような会社を儲けさせてやる必要はない。徹底的に取引条件を見直し、応じない会社があれば転注しろ」
的場の命令に、「ノー」は許されない。
-6-(「ダーウィン」発売記念のパーティの日にもモニターから故障情報を受信する)
「ダーウィン」の発売を記念して開催されたパーティは大盛況であった。
パーティ参加者は、同プロジェクトに賛同して協力した京阪地区を中心とした約300社の中小零細企業の代表者たちだ。
「圧倒的な滑り出しです。『ダーウィン』の受注台数は1000台を突破いたしました。これも皆様のご支援の賜だと深く感謝いたします」
熱弁を振るってているのは、ダイダロスの重田登志行であった。
この日 、新たな報告がモニター農家から電話でかかってきた。
―――なんか突然、動かなくなったんだけどさあ。どうしてくれんだ、今日、作業しないと間に合わないんだよね。
千葉県内の野菜農家だ。
電話では解決しなかったので、ギアゴーストの堀田は代替機を積んだトラックで現場に向かった。1時間の点検の末、問題のトラクターは回収してギアゴーストに運び込まれた。
パーティ会場にいた柏田は、「キーシンの自動走行制御プログラムはバグを修正したはずなのにと首を傾げ、このパーティが空騒ぎにならなきゃいいけどな」と呟く。
堀田はそれに応えず、どうも気になることがあると、パーティ会場を出て会社へ戻った。
-7-(来年7月に殿村家にも貸与の「アルファ1」が来るとのこと)
翌年4月、広大な畑を2台のトラクターが縦走している。
前を行く1台は無人トラクターだ。ローターが回転して土を耕耘し、その10メートルほど後ろを走るトラクターが何かの種子を蒔いているらしい。後ろのトラクターを運転しているのは、稲本の農業法人に参加している農家の次男坊だ。前を行くトラクターは「ダーウィン」で、農水省の指導によるランデブー走行をしている。
「『ダーウィン』ってやっかよ、ありゃ。佃さんたち、先越されちまったのかよ」
農道で止めた軽トラの助手席で、父の正弘が言った。
殿村は、「帝国重工のは7月に出るらしいよ。ウチにも、田んぼを貸したお礼も兼ねて、ただで貸してくれるものが、そのころ来るらしいよ」と告げた。
「第八章 帝国の逆襲とパラダイムシフトについて」に続く