T.NのDIARY

写真付きで、日記や趣味をひとり問答で書いたり、小説の粗筋を纏めたブログ

「秋月記」を読み終えて!ー2/6ー

2013-01-23 09:17:34 | 読書

「第四章」

ーー 藤田伝助の一人娘が自害する。三弥の仕業? --

 小四郎が夫婦養子に入って数日後、少年時代、藩の稽古館で共に修行した友人7人が間家に集まった。

 話題が、剣の師匠の伝助が、一人娘の千沙の死が原因で致仕して秋月を去っていることになった。千沙は病死でなく自害で、それも三弥に弄ばれ捨てられたようだと聞かされて、小四郎は初めて知り驚いた。

ーー 本藩と師範の軋轢から伝助も射殺される --

 無役の小四郎は、10日ほど後に、織部から館に呼び出され、藩医の緒方春朔と春朔に種痘を学ぶために秋月に来ている福岡に医師の香江良介に同行し、福岡藩内の天然痘患者から採取した病漿を持ち帰ることを命じられた。

 秋月藩は、初代福岡藩主黒田長政の遺言により三男長興が5万石を分知され福岡藩支藩として成立したものだが、幕府から朱印状を交付された独立の藩でもあった。そのため、福岡藩と秋月藩の間には昔からひそかな軋轢があり、福岡藩は秋月藩を吸収しようという動きもあった。

 そのようなことから、8代藩主長舒が襲封するまで1年が掛ったほどで、それも、幕府老中に働きかけ、幼少の福岡藩主に代わって長崎警備をすることで話をつけ、そのために莫大な出費を伴い藩の財政を窮乏させることになっていた。

 両藩の軋轢を熟知している織部からは、今回の件も緒方医師の名声についての本藩の妬みを頭において慎重に事を運べとの指示があった。

 福岡で小四郎たちは伝助に遇った。伝助は、小四郎たちを守るために帰路を同行する予定でいた。帰路、本藩の隠密役である伏影に襲われ、良助は負傷し伝助が射殺された。

 小四郎は、織部が何故今度の役目に自分を使ったのか、安太夫は織部が将来逆らいそうな奴の眼を摘むために策したのかもと言ったが、その理由は伝助の死と共に霧の中に隠れたようにぼんやりとしていた。

「第五章」

ーー 秋月に寄った藤蔵が小四郎の推薦で藩の柔術師範として仕官 --

 江戸で小四郎と友になった藤蔵が武者修行で秋月に寄ったので、小四郎は仕官を薦め、藤蔵の腕前が認められ柔術師範として仕官した。

 藤蔵と秋月眼鏡橋に使用する石切り場に出向き、長崎の石工の吉次と親しくなり、石の加工について教えてもらった。

ーー 渡辺家老が人を殺してまでして大阪の芸妓を落籍 --

 石切り場から藤蔵と別れて小四郎は実家の吉田家に寄った。渡辺家老が大阪の芸妓・七與を落籍し、村の別の屋敷に住まわせているとの話を聞いた。

 落籍するために、七與が惚れていた男を中間に殺させたとのこと。そして、周りに対して、その中間の態度が横柄になったので、家老帯刀は誰かに命じて水死させた。その殺害者が三弥だとも噂されていた。

「第六章」

ーー 完成を急ぐ石橋が崩落、織部は吉次の恋仲・いとを妾に強要 --

 村の娘のいとが石工の吉次に弁当を渡すほどに親しくなっていた。

 織部が、遅れている工事を急がすために三弥をつれて現場に来た。いとが織部の目に留まって三弥に何事か言った。三弥はいとを織部の屋敷の女中奉公にと、しつこく迫った。後日、庄屋が中に入り、ようやく断ることができたが、織部は行儀見習いを断られて機嫌が悪かったとのことだった。

 石橋が完成し、藩主の渡り初めより前に、子供が橋の上で遊んでいた。小四郎は子供を追い払ったが、一人の女の子だけは詩を作っているのだと言って逃げなかった。その子の名は猷といい、稽古館の原古処先生の娘だという。

 その時、石橋が大音響とともに中央から川の中に崩れ落ちた。小四郎は猷を抱えて寸でのところで難を逃れた。暫くして、織部も来て石工たちを引き立てて行った。

 石橋が崩落して間もなく、藩主が病没し、九代藩主長韶が襲封して石工たちは放免された。しかし、この頃藩内には織部の不徳を伝える話が流れ、吉次の赦免の代わりに、一度断った、いとを女中奉公に差し出せた、そして妾にしたと噂されていた。

ーー 織部の家老下しの失敗 --

 先君のご意思ということで石橋の再建設が決まった。藩内には反対の声も根強かったが、新藩主さえ頭の上がらない織部はすでに独裁者になっていた。

 小四郎と友人たちの間でも、そんな織部の罪状を糾弾する声が強くなっていた。黒崎御蔵奉行所勤めの第蔵が調べた藩の借銀は、各地の商人から合わせて5000貫におよび、織部と帯刀両家老が大阪などで使った費用1000両もその中に含んでいたとのことであった。

 翌年1月、猷が小四郎の屋敷を訪ねてきて、自分の縁談の相手の香江良介のことを窺いたかったからと言いながら、小四郎が意見書を出したり友との談合をされているようだが、気をつけられたほうがよいと父が案じていたとの話もして帰った。

 小四郎は、家老批判の会合が知られるようになったことが気になった。

 小四郎は、藩主に訴えて織部を家老の座から下そうと考えていたので、もはや猶予はできぬと、秋に石橋ができるので、その渡り初めに来た藩主に訴状を渡すことを6人の友と計画した。

 その日になって思いがけないことが起こった。吉次が織部の前に土下座して、いとを返してくれと願い出たのだ。

 織部は場所をわきまえろと蹴り上げた。傍にいた三弥が袈裟懸けに吉次を斬った。

 いとは宮崎屋敷から実家に帰されたが、村では織部の妾になっていた女ということで冷たい目で見られ、田では働けず、山間でひっそりと畑仕事をするようになった。

コメント
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