表題作「木練柿」
ーー (追憶) 清弥(婿となる前の清之介の名)とおりんの恋 --
大女将おしのは、柿の木の上で柿を取り合うおみつと白頭鳥との格闘を見て笑っていたおりんのことを想い出した。
そのおりんが15歳の時、見知らぬ男から自宅で手込めにされ、身籠った。そして、身体よりも心が現を抱えきれなかったのか流産した。このことは母親のおしのとおりんだけが胸に閉まっていた。
おりんが18歳の時に、浪人の清弥と恋におち、おしのに、「私、清弥さまとなら夫婦になれる。一生、添い遂げることができる。そんな気がするの。そんな気持にさせてくれるのは、あの方が初めて…。ほかの男の人では駄目なの、怖くて…。」と話す。
その人は本気で刀を捨てる覚悟がおありかと、おしのが問う。商家の主が務まると思うと、おりんが答える。
おりんが清弥を両親に紹介した宵、父親の吉之助はめずらしく酒を酌み交わし語りかけ、辞する清弥を強引に泊るように説得した。
おしのが浅い眠りから目を覚ますと、雨戸の開く音がした。
廊下から見るおしのの目には、月に照らされている清弥が映った。そして、夜風に瞬いたおしのの眼を白い光が射た。刀身が月の光を受けて輝いていたのだ。そこへ、おりんが庭へと通り過ぎた。清弥の側にたたずみ、「清弥さま、お覚悟を。」と力強い言葉をかけた。清弥が差し出す大小の刀剣をおりんは両手で受け取った。闇の世界に生きていた清弥にとって刀剣は体の一部だった。刀剣を手放すことができずにいた清弥は、おりんの愛で、それを成し遂げたようだ。
おしのは、覚悟するのは私だ、おりんには幸せになってもらいたいと、揺れ続く心で寝間に帰る。
目を覚ましていた吉之助は、「商いを回す力、風車を回す風みたいな力だ。人を引き付け、呼び寄せ、使いこなす、それができる男だ。」と、そして、「あの方を俺の手で一人前の商人に育ててみたいんだ。娘や店だけでなく、商いの道や心みたいなものをちゃんと伝えたいのだ。」とおしのに話す。おしのは、体が弱っていた亭主の生き生きとした声音が心地よかった。
ーー おこまがさらわれる --
おみつが何者かに何かで叩かれて、遊びに連れ出ていた遠野屋の一人娘・おこまがかどわかされた。
おりんが亡くなった後、清之介は血の繋がりのないおこまを我が子として、また、おりんの身代わりとして育てていたので、身体中の血が引いていく思いだった。
おみつは清之介に促されて信次郎と伊佐治にさらわれた時のことを仔細に話し出した。おみつは喉が渇いたので、おこまちゃんを抱いてお稲荷さんの境内の裏手の湧水が出る場に行って柄杓をとった時に、おこまちゃんが目を覚ましたので、まず、おこまちゃんに水を飲んで貰おうとして柄杓を持ち直した、そこまでは覚えている、その後は気を失っていた。それまでは周りには誰もいなかった。
近所の子供に呼び起こされて、誰かに叩かれたことが判り、周りを必死に探したが何処にも見当たらなかったと、そのまま泣き崩れた。
信次郎は、かどわかした奴から文が来ないとすれば、店や金が目当てでなく、清之介を力づくで従わせるものでもないと考えた。とすると、おこま自身に価値があり必要なんだと確信した。
信次郎は、おこまの身体に何か特別の印がなかったかと聞いた。清之介が、耳の後ろに桜の花弁に似た痣があると答える。
《清之介を励ます信次郎》
『稲荷の裏手に急ぐ信次郎に、清之介が呼び掛けて「おこま自身が目当てのかどかわしなら、おこまは生きておりますよね。」続けて「おこまを殺しては元も子もないはず。それなら、あの子は無事でいると信じてもよろしいですよね。」と言う。信次郎の目が潤む。
潤みと見えた眼の光が殺気となって凍えた空気を射抜き、信次郎の剣が抜き放たれた。剣先は清之介の鼻先一寸ばかりのところで止まっている。
信次郎は、「今のおぬしじゃ、いささか心もとない、隙はないがどっか緩んでいる。」と言う。伊佐治が清之介を見ると、清之介は、「目を覚ませ、目を覚まして見るものを見ろ。」と言われたのだと口許を引き締めた。
清之介は信次郎が必ずおこまを助け出してくれると信じた。』
ーー おこまが戻る --
信次郎と伊佐治が稲荷裏手の長屋を尋ねた時に、赤子を抱いたお重が長屋の事を長々と喋ってたので、反対に何か怪しいと思い、信次郎は、伊佐治にお重と亭主について詳しく調べろと指示をした。その他の手配を済ませて清之介と遠野屋に帰ってきた。
《死を覚悟のおみつに対する清之介の思い遣り》
『清之介が、信次郎へのお茶を頼もうと思ったおみつが見えないので庭に出てみると、柿の木の下で立っていた。
償いようがない。お詫びのしようがない。もう生きてはいられない。そんなに思っていたおみつが清之介に何をしていると声をかけられた。傷のほうが大事ないなら木暮さまにお茶を出して夜食の用意もな、と言われた。お見逃してくださいというおみつに、「もうじき、木暮さまがおこまを連れ戻してくださる。おこまが帰ってきたとき、誰がおこまの守をするんだ。儂が背負って店に出るわけにはいかないし、おかっさんには荷が勝ちすぎる。お前しかいないだろう。」と言って清之介は歩み去った。』
伊佐治が信次郎に探索結果を知らせた。
お重の亭主の正徳は生薬商長谷屋の通い番頭をしていて、店を辞めた時のために店の品物を流してその金を懐に入れていた。
長谷屋の主の忠三郎は無類の女好きで何人ものの女と遊んだが、子供ができず、俺は種無しらしいと諦めていた。正徳は旦那の女遊びの後始末をしていた。そのため、正徳は、忠三郎が二三度遊んだ水茶屋のお文という女とも知り合い、その文が、赤子を浚って長谷屋の子供にする企てを持っていることをお重にも話した。それにお重が乗った。
お重は、おこまに耳の裏に痣があることを知っていて、かどわかす機会を狙っていて、水を飲まそうとするおみつを後ろから棒で殴って気を失わせ、お文におこまを渡した。その後、お文は旦那の子を産んで育てている、旦那と同じような痣が耳の後ろにあるから旦那の子に間違いないので一目会ってくれと手紙を出した。
その手紙がこれですと信次郎に差し出した。
信次郎たちは、早速にお文たちが待っている料理屋に急ぎ、おこまを取り戻した。
清之介は、よく無事でいてくれたと、おこまを抱きしめ、信次郎に礼を言った。
信次郎は清之介に、「遠野屋、守らなきゃならぬものを背負ってしまったら、力にもなるが、その重みで動けなくなり、それがおぬしの弱点にもなる。今度また、おこまが浚われて、おぬしに刀を握れと命じたらどうする。」と言う。暫し間をおいて、清之介は、「おこまと共に刀を握らぬまま生き抜いてみせます。」と答える。
清之介の言葉が終わるか終らぬうちに、ふらりと立ち上がり座敷を出る信次郎の後姿に、清之介は深く辞儀をした。