T.NのDIARY

写真付きで、日記や趣味をひとり問答で書いたり、小説の粗筋を纏めたブログ

「秋月記」を読み終えて!ー3/6ー

2013-01-24 09:21:11 | 読書

「第七章」

ーー 2回目の織部崩しの談合に、小四郎だけが閉門に --

 吉次が斬られて一年が過ぎた10月、第蔵の呼びかけで、小四郎の屋敷に惣兵衛たちと藤蔵が集まり、頓挫した直訴について話し合っていた。

 そこに、三弥が訪ねてきた。御一同に話しがしたいとのことであった。皆さんは何か誤解されているようだが、とせ殿は自分から求められたのだ。その当時、千沙殿を見初めて親しくしてもらっていたのだが、とせ殿との関係を知った千沙殿は自ら自害されたのだと説明した。

 今日訪ねたのは、御家老の執政は目に余るものがあり、石工を斬ったことも私は悔いており、皆さんのお役に立ちたいと思って参りました。御家老は藩内の動きに目を光らせているので、殿の周りに近づき難いから、本藩に訴えたら如何ですか、本藩中老の村上大膳様に手引きいたしますと言う。

 それから7日後に、小四郎だけが渡辺家老から閉門を申し付けられた。今後、これ以上に何事かあれば、惣兵衛たちはもちろん軽格の三弥も罪を問うと言う帯刀のの言葉に、三弥が福岡出訴をわざわざ目付に告げるわけがないと思いながらも、小四郎は三弥の名が出たことに、山弥に何か不信を感じ、千沙が自害した後も秋月に留まる山弥の心情にも理解し難いものがあった。

ーー 三弥に不審を持ちつつも、閉門の身で友と本藩出訴を決行 --

 小四郎は、伝助や吉次が藩政の中で何が行われているのか解らない闇の中で死んでいった、その闇を晴らしたい強い衝動から福岡出訴を決意して、その決意と出訴の話し合いについて第蔵に手紙を送った。

「第八章」

ーー 秋月藩の政変「織部崩れ」がなる。しかし、本藩の傀儡となる --

 小四郎と安太夫、左内が福岡に行き、藩領が出るまで藤蔵が護衛役として同道することで、小四郎たちは、小四郎の処分が出てから10日後の夕方出立した。本藩の仲介で、、ちょうど福岡にいた藩主長韶に訴状を差し出す予定である。

 山に入ると数騎の追手が来たが、藤蔵がやっつけた。先に進むと、さらに織部の側近の一人が先頭に数人が襲ってきた。その中に三弥もいたが、眼前で寝返って追手をたちまちに斬り倒した。

 村上大膳は、小四郎たちから届いた訴状を家老と共に藩主の前に提示し、福岡藩主から秋月藩主長韶に問いただして、長韶は織部の専横の振る舞いを認めた。

 大膳が大目付として秋月に来て取調べ、福岡藩家老の立ち合いの許で、織部たちは厳罰に処せられた。いわゆる「織部崩れ」の政変である。

 小四郎たち7人は御家を救った中心として手賞賛され、それぞれ重職に登用された。藤蔵は訴状に名を連ねていなかったので別にして、追手を討ったこと、企てに参加したことを申し出ていたのに三弥には何のお達しもなく、小四郎は不審な別の狙いを感じた。

 案の定、小四郎が感じていた「本藩による差配」で、秋月御用請持として福岡から沢木七郎太夫が派遣された。本藩は最初から織部崩れに乗じて秋月藩を乗っ取るつもりだったのかと気付いた。

ーー 差配の一段として、稽古館の閉鎖 --

 学館目付になった小四郎に七郎太夫が最初に命じたのは、稽古館の閉鎖、原古処先生の教授罷免だった。

 『小四郎が稽古館の閉鎖に反論すると、貴殿は福岡藩の殿に忠義を尽くす立場にあり、秋月の誇りなどということは二の次、いや、本藩への競争心などは控えねばならないと言われた。

 小四郎が原古処先生にこの事を告げて陳謝すると、先生は過去の経験から覚悟していて、むしろ小四郎を慰め、あなたはこれから重き荷を背負って辛い道を歩かれることになるかと思うと言われた。』

ーー いとに遇い、悪者は帯刀と三弥で織部は忠臣だったことを知る --

 その日の夕方、眼鏡橋のたもとでいとに遇った。

 小四郎が家老の非事を今少し早く訴えておれば、吉次は死なずに済んだかもしれぬと言うと、いとは、御家老はどのような悪いことをされたのでしょうかと問う。家老はそなたを無理やり妾にしたのではないのかと言うと、女中奉公しただけですと返答する。小四郎は息を呑んだ。

 吉次も間違った噂に惑わされて織部に訴え出て、三弥に斬られたのだ。

 続けて、いとは、御家老は短気な方で人当たりの悪い方でしたが、お家のために一生懸命でした。悪いのは渡辺家老や姫野様ですと言う。考えてみれば、織部の評判を悪くしたのは、いとを妾にしたと風評された以外は政事を独裁したということだったと思った。 

コメント
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