スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

書簡七十六&終焉の同時性

2017-06-15 19:25:09 | 哲学
 アルベルトAlbert Burghからの書簡六十七が遺稿集Opera Posthumaに掲載されたのに,ステノNicola Stenoからの書簡六十七の二が掲載されなかったのは,スピノザがアルベルトには返事を出したけれどもステノには出さなかったからだと推測されます。内容だけでいえばステノからの書簡の方が掲載する価値が高かったと思えるので,僕はそう推測しています。そしてスピノザがアルベルトに送った返信が書簡七十六です。
                                     
 書簡六十七というのは論理的にスピノザを説得しようとするような内容をほとんど含んでなく,スピノザに対する罵詈雑言あるいは誹謗中傷といっていいようなものでした。書簡七十六の中に,そういう内容に相応しいような文言がないわけではありません。つまりスピノザがアルベルトに対して感情的に反論しているといえなくもない部分が皆無であるとはいえません。しかしそうした部分はごく一部に限られるのであって,基本的にはスピノザは理性的に対応しています。スピノザが盲目的に宗教religioを信じる人に対してどのように反論するのかということは,その哲学の中から明らかで,そうしたことはこの往復書簡とは無関係に僕も書いていますから,その内容についてはここでは深く言及しません。
 スピノザ自身はかつてステノともアルベルトとも親しい交際があったと考えられます。なのにステノには返事を出さず,アルベルトには出したのには,それとは別の理由があったからでしょう。たぶんその理由というのは,アルベルトの友人あるいは親族から,アルベルトを説得してほしい,具体的にいえばローマカトリックへの信仰fidesを捨てて,かつてのプロテスタントへの信仰に戻るように説得してほしいという依頼があったからです。
 スピノザはアウデルケルクAwerkerkに住んでいた頃,アルベルトの父であるコンラート・ブルフに世話になった可能性があります。おそらくそれは事実で,スピノザはかつての恩人であるコンラートからの依頼を無碍には断れなかったのでしょう。ただ,そのためにこの書簡が残り,スピノザの考え方が明瞭になっているともいえるわけで,歴史的にみればこれはこれで価値ある出来事であったという気がします。

 第二部定理八系が,Aの形相的有esse formaleとAの客観的有esse objectivumの持続duratioの開始の同時性を意味しなければならないこと,いい換えるなら,Aの形相的有がAの客観的有より先に持続を開始するということはないし,逆にAの客観的有がAの形相的有よりも先に持続を開始するということはないということを意味しなければならないということについては疑問の余地はありません。ただ,桂の記述を考慮の外に置くならば,このことは一般的にAの形相的有とAの客観的有の同時性を意味することはできません。なぜなら,持続が同時であるというためには,単にその開始が同時であるということをいうだけでは十分でなく,その持続の終焉も同時であるということをもいう必要があるからです。
 第二部定理八系は,持続の開始の同時性にしか言及はしていませんが,実際には終焉の同時性も意味しています。少なくともスピノザはそのように考えています。なぜなら,スピノザは第五部定理二一を論証するために第二部定理八系を援用しているのですが,そこから帰結する事柄として,精神mensは身体corpusが持続する間だけ身体の現実的存在を表現するexprimereことと,身体が持続する間だけ身体の変状corporis affectionesを現実的なものとして把握するということをあげているからです。これは逆にいえば,身体の持続の終焉とともに精神が身体の現実的存在を表現したり,身体の変状を現実的なものとして把握することも終焉するといっていることになります。したがって,人間Aの身体の持続の終焉と人間Aの精神の持続の終焉は同時でなければなりません。しかるに,人間Aの形相的有とはその人間Aの身体であり,人間Aの客観的有とはその人間Aの精神でなければならないのですから,これを一般的にいえば,Aの形相的有の持続の終焉とAの客観的有の持続の終焉が同時であるということになります。
 第二部定理八系が本来的にそのことを意味することができると僕は考えますが,もしかしたらそこには見解の相違があるかもしれません。ただ,第五部定理二一の証明の内容から,スピノザがAの形相的有の持続の終焉とAの客観的有の持続の終焉が同時であると考えていることは明らかで,それが明らかなら十分です。
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農林水産大臣賞典関東オークス&持続の同時性

2017-06-14 20:40:48 | 地方競馬
 第53回関東オークス
 発馬直後に先手を取りにいったのはイントゥゾーン。これを外から鞭を入れてアップトゥユーが交わして逃げました。このために先頭と2番手,2番手と3番手以降がそれぞれ2馬身くらいの間隔に。向正面ではステップオブダンスとアンジュデジールが3番手を併走し,5番手にクイーンマンボ。隊列が決まるとペースが落ち,1周目の直線に入るあたりではアップトゥユーとイントゥゾーンの間隔が1馬身ほどに。その後ろの馬との間隔も短くなり,内を回ったステップオブダンスの外にクイーンマンボが上がってきての3番手併走。アンジュデジールが控えて5番手に。発馬直後は速かったですが,全体的にはスローペース。
 このままの隊列で2周目の向正面を通過するとイントゥゾーンが苦しくなって後退。アップトゥユーの外にクイーンマンボが並び掛け,コーナーの途中で交わして先頭に。アップトゥユーはそのまま後退し,アンジュデジールが2番手に、しかし直線では先に先頭に立ったクイーンマンボを追い上げる余力がなく,一方的に差を広げていったクイーンマンボが4馬身差の圧勝。アンジュデジールが2着。インを回ってアップトゥユーを捌いて直線はアンジュデジールよりも外に出てきたステップオブダンスが3馬身差で3着。
 優勝したクイーンマンボは重賞初勝利。新馬戦は芝で大敗。2戦目からダートに転じて連勝。前走は牡馬相手の重賞で3着。今年はめぼしい実績を残していた馬が不在でしたので,このメンバーなら優勝の可能性が高そうだとみていました。地方競馬の馬場を経験していた分の強みも出たのではないかと思います。着差くらいの能力差があると考えてよいのではないかと思いますが,全体のレースレベルがあまり高くなかったという可能性もありますので,どのくらいまでの活躍が可能であるのかは,今後の走りもみる必要があるのではないでしょうか。距離は長い方がいいのではないかと思います。父はマンハッタンカフェ。母の父はシンボリクリスエス。3代母がキーフライヤー。母の半兄にスズカマンボ
                                     
 騎乗したクリストフ・ルメール騎手と管理している角居勝彦調教師は関東オークス初勝利。

 第二部定理八系では,個物res singularesが神の属性の中に包容されている限りにおいて存在する間はその個物の客観的有esse objectivumも神の無限な観念が存在する限りにおいてのみ存在するといわれています。これは形相的有esse formaleならびに客観的有が永遠の相species aeternitatisの下に考えられる限りで,あるいは永遠の相の下に表現されるexprimuntur限りにおいての場合です。これを同時というならば,形相的有と客観的有の存在の同時性がスピノザの哲学においては要求されている,すなわち,形相的有が客観的有に先行することはないし,客観的有が形相的有に先行するということもないということは,第二部定理七系を参照することによっても明らかですから,この場合の同時性の問題についてはすでに解決されているといえます。
 この系Corollariumでは続けて,個物が時間的に持続するといわれる限りにおいても存在するといわれるようになると,個物の観念もまた持続するといわれる存在を含むようになるといっています。これは個物が永遠の相の下に表現されている場合のことではなく,持続duratioの下に,あるいは時間tempusの下に存在する場合であることは明白でしょう。そしてこの文言は,明らかに形相的有と客観的有の持続の開始の同時性を主張しています。つまりことばの正しい意味において同時性を把握した場合にも,形相的有と客観的有の同時性がスピノザの哲学では要求されているのであり,一方が他方に対して先行することはないと主張されていると解さなければなりません。したがって『スピノザの哲学』でいわれていることは,スピノザの哲学の正しい理解に対しては不備があることになります。スピノザの哲学は客観的有の形相的有に対する同時性は要求しますが,客観的有の形相的有に対する先行は要求しません。むしろそれを否定しています。
 ここで僕がスピノザの哲学の正しい理解に対して不備があるといういい方をするのは,おそらく桂もそのようなことは理解した上で,もっと別の観点から客観的有の先行という主旨に読解することができる記述をしているかもしれないと思うからです。実際は,ある意味においてならそういういい方が可能だと僕は認めます。ですがそのことの前に,同時性をもう少し探求します。
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マジックストーム&同時

2017-06-13 19:07:51 | 血統
 4日の安田記念ではサトノアラジンが大レース初制覇を達成しました。母のマジックストームが輸入馬で,日本での基礎繁殖牝馬になります。ファミリーナンバーは日本に古くから残る牝系のひとつである星旗と同じ16-h
                                     
 マジックストームはアメリカ産。競走生活もアメリカで送り,GⅡを1勝しています。
 そのままアメリカで繁殖入りし,2004年に初産駒を誕生させました。2007年にアメリカで産駒を誕生させた後,繁殖牝馬として購入され日本に渡ってきました。このとき当年の種付けは終っていましたので,2008年に日本で誕生した産駒はアメリカで種牡馬生活を送っている馬です。誕生した牡馬は準オープンまでは勝ったものの,オープンでは未勝利のまま引退しています。
 2009年は産駒がなく,2010年にディープインパクトとの間に産まれたのがラキシス。2014年にエリザベス女王杯を勝ち,2015年には大阪杯も制しています。ラキシスはすでに引退し,今年の春に初の産駒を誕生させています。
 翌年もディープインパクトと配合。こちらは牡馬で,この馬がサトノアラジンになります。
 すでに2頭のGⅠ馬の母になっていて,そのうち1頭が牝馬ですから牝系はこれから広がっていくでしょう。また,サトノアラジンは今後も順調なら種牡馬としての需要があるものと思われます。また,やはりディープインパクトの間の産駒である現3歳の牝馬は重賞で2着1回,3着2回の成績を残していて,重賞制覇も期待できます。この馬も無事に競走生活を終えることができれば繁殖牝馬となるでしょう。活躍馬がまだまだ出てきそうですから,着目しておいてよい牝系であると思います。

 平行論の基本原理は,Aという形相的有esse formaleが存在するなら無限知性intellectus infinitus,infinitus intellectusのうちにAが客観的有esse objectivumとして存在していて,逆に無限知性のうちにAが客観的有として存在するならAは無限知性の外に形相的有として存在するということです。そして第二部定理一一系により人間の精神Mentem humanamは神の無限知性の一部partem esse infiniti intellectus Deiなのですから,人間の精神のうちにAの客観的有がある,いい換えればAの十全な観念idea adaequataがあるのであれば,Aは精神の外に形相的有として実在するのです。このために僕たちはAを十全に認識することさえできれば,Aが精神の外に実在するということも知ることができ,なおかつ第二部定理七によって形相的有としてのAとAの十全な観念の原因と結果の連結と秩序Ordo, et connexioが一致するので,Aの観念について知ることができるだけでなく,形相的有としてのAについても知ることができるのです。
 したがってこの原理は,Aの形相的有がAの客観的有に対して先行するものではないということを意味しなければなりませんが,同時に,Aの客観的有はAの形相的有に対して先行しないということも含意しなければなりません。つまりスピノザの哲学は,観念が事物に対して同時であるということは要求しますが,先行するということは要求しません。というよりそれを否定しているといわなければならないでしょう。
 ただし,同時というのは時間的な意味を有するので,その点についてもう少し考えておかなくてはなりません。というのは,たとえば第二部定理七系は,明らかにここでいう事物と観念の同時性を意味していなければならないでしょうが,それは事物が永遠の相species aeternitatisの下に考えられる場合だといえるからです。他面からいえば,事物なりその観念なりが,神の属性attributumに包容される限りにおいてであるといえるからです。厳密にいえば永遠というのは時間tempusを意味することができないので,本来的には同時であるというのはあまり好ましい表現だとはいえません。とはいっても,Aの形相的有が実在するならAの客観的有が実在し,Aの客観的有が実在するならAの形相的有も実在しなければならないという照応関係があるのは間違いないので,それを同時性という限りにおいては同時です。
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タクシー ドライバー&基本原理

2017-06-12 19:38:35 | 歌・小説
 「小石のように」は「親愛なる者へ」というアルバムに収録されています。このアルバムの中には僕が数多く聴いている歌がひとつ入っています。それが「タクシー ドライバー」です。
                                   
 この曲は,1台のタクシーに乗った女の心模様が中心に描かれ,そこにそのタクシーの運転手が絶妙な形で絡んできます。この女の心模様というのは概ね次のようなものです。

       笑っているけど みんな本当に幸せで
       笑いながら 町の中歩いてゆくんだろうかね
       忘れてしまいたい望みを かくすために
       バカ騒ぎするのは あたしだけなんだろうかね


 こんな心模様でタクシーに乗った女は運転手に次のように言うのです。

       ゆき先なんてどこにもないわ
       ひと晩じゅう 町の中 走り回っておくれよ
       ばかやろうと あいつをけなす声が途切れて
       眠ったら そこいらに捨てていっていいよ


 そう言われる運転手は,女にはこんな人と映っています。

       タクシー・ドライバー 苦労人とみえて
       あたしの泣き顔 見て見ぬふり
       天気予報が 今夜もはずれた話と
       野球の話ばかり 何度も何度も 繰り返す


 そんな運転手が自分のことを捨てていくわけがないと女は確信しているのです。だから安心して「捨てていっていい」と言うことができたのです。

 桂が意識していたのはおそらく同時代の日本における思想界の状況であったと僕は推測します。その時代認識が正確であったかどうかは別に,スピノザの哲学で形相的有esse formaleが客観的有esse objectivumに対して先行することはないという点は,スピノザの哲学への正確な理解であるといえます。スピノザの哲学では,事物があってそれが認識される,すなわち知性intellectusの外にAがあって,それが知性によって認識されることによってAの観念ideaが存在するようになるというわけではありません。
 このことはスピノザが思惟の属性Cogitationis attributumの直接無限様態として無限知性intellectus infinitus,infinitus intellectusを示していることと関係します。たとえば第二部定理一七の様式で人間の精神mens humanaがある事物を表象するimaginari場合,まずこの表象imaginatioと関係する外部の物体corpusが存在して,その外部の物体がある人間の身体corpusと関係することによってその人間の知性のうちに表象像imagoが発生するということは可能であって,この場合には表象像という観念に対して表象される外部の物体の存在が先行しているといえなくありません。そして表象像は混乱した観念idea inadaequataですが,第二部定理三二により神と関係する限りでは真quatenus ad Deum referuntur, verae,すなわち十全adaequatumなので,形相的有が客観的有に対して確かに先行しているといえなくないでしょう。ですがこれは人間の知性という有限な知性と関連させ,その有限な知性のうちに何らかの観念があるということを前提しているからそうなっているだけです。別にこの人間がその外部の物体を表象せずとも,無限知性のうちにはその物体の真にして十全な観念idea adaequataがあるわけで,この意味においては形相的有が客観的有に先んじているわけではありません。むしろ双方の関係は,もしAという形相的有が存在するならばAの客観的有が無限知性のうちに必然的に存在するのであり,逆にAの客観的有が無限知性のうちにあるなら,Aは形相的有としても無限知性の外に必然的に存在しているという照応関係があるだけです。これは平行論の基本原理であるといえるでしょう。
 ですから,形相的有が客観的有に対して先行しないということを原理的に示しているのは第二部定理七であり,また第二部定理七系であることになります。同時にこれらは逆も意味しなければなりません。
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国際競技支援競輪&先行と同時

2017-06-11 19:26:30 | 競輪
 被災地支援競輪として大垣競輪場で開催された国際自転車トラック競技支援競輪の決勝。並びはボス‐パーキンス‐ドミトリエフの外国勢,佐藤友和‐佐藤康紀の北日本,高橋‐小林の愛知に伊勢崎で東は単騎。
 佐藤が迷いなくスタートを取って前受け。3番手に高橋,6番手にボス,最後尾に東で周回。残り3周のバックからコーナーに差し掛かるところで東が動き,パーキンスの外で併走。ホームから高橋が佐藤康紀との車間を,ボスが伊勢崎との車間を徐々に開け始めました。バックに入ってからボスが発進し,これに合わせて高橋も発進。外のボスが叩いて打鐘になりましたが,競り合っていたパーキンスと東は共に追えず,高橋がボスの後ろに。競り勝ったパーキンスが3番手で,引いた佐藤友和がその後ろ。さらにここにドミトリエフも追い上げてきました。バックの手前からパーキンスが発進。バックでは捲り切って先頭に。流れ上はパーキンスをマークする形になった佐藤友和が内で粘る高橋を振り切り,直線では差を詰めるも届かず,優勝はパーキンス。半車輪差で佐藤が2着。直線で高橋を捕えたドミトリエフが1車身差の3着。
 優勝したオーストラリアのシェーン・パーキンス選手は昨年9月の支援競輪も優勝していて記念競輪級2勝目。この開催はこの後の高松宮記念杯競輪に出走する選手の出場がなく,外国人勢に対抗できる日本人選手が不在。対抗するべく二段駆けのようなラインにもならなかったので,パーキンスにとってはとても有利だろうと思われました。それでも東が勝ちにいく競走をみせたために展開がかなり縺れ,優勝とはいえかなり苦しい内容に。パターンとしていえば勝てない展開で,それを立て直して3番手から捲っていったのは脚力の証明です。ただ,もっと強力な日本人選手が存在した場合には,このような展開になると脚力に違いがあるといえども勝つことは難しいのだろうとも思える内容でした。

 もうひとつ,『スピノザの哲学』において僕が気になった記述は第五章の第四部にあります。桂はそこで,スピノザの思想は人格神を否定するものであるけれど,人格的に神Deusを認識した思想の影響は受けていて,それによって,スピノザの思想では観念ideaが事物に先行するか少なくとも同時であるということが要求されていると読解できる主旨のことがいわれています。
                                     
 僕はスピノザの思想の背景といった事柄についてはあまり重視しません。スピノザの哲学がデカルトの哲学の影響を受けているということは紛れもない事実だと思いますが,影響を受けた思想がほかにもあったであろうことはまた同じように事実であると考えるべきだと思います。桂は当該部分で,人格的に神を認識した人物としてアウグスティヌスの名前を出しています。スピノザがアウグスティヌスの思想の影響を受けたのかどうかは僕には分かりませんが,このことが事実であるかどうかということは僕は問題とはしません。ただ,観念が事物に対して,これは客観的有esse objectivumが形相的有esse formaleに対してという方がより桂の主張の主旨が鮮明になると思うので僕はそちらのいい方を用いますが,客観的有が形相的有に対して先行するか少なくとも同時であるという点については,記述のあり方として大いに問題視します。というのもそれが先行するのか同時であるのかということは,桂の記述にあるように並列的に示すことができるわけではなく,そこの部分の相違自体を問題としなければならないと考えるからです。
 おそらくここで桂がいいたかったのは,形相的有が客観的有に先行するという考え方がスピノザの哲学にはないということなのでしょう。だから客観的有が形相的有に対して先行するということと同時であるということを並べたのだと思われます。たぶん桂は,一般的には形相的有がまず存在して,それが知性intellectusによって認識されることによって客観的有が発生すると思われている,つまり形相的有は客観的有に対して先行すると思われているというような認識をもっていて,それがスピノザの哲学では否定されていると強く主張したかったのだと思われます。これは桂の時代認識なので,僕は度外視します。
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王位戦&別の解釈

2017-06-10 19:21:54 | 将棋
 昨日の第58期王位戦挑戦者決定戦。対戦成績は菅井竜也七段が3勝,澤田真吾六段が2勝。これまでの5局のうち3局が千日手指し直しで,指し直し局3局のうち1局はまた千日手になっていました。
 振駒で菅井七段の先手。澤田六段から角を交換する形での先手の角交換向飛車に。澤田六段は左美濃にして持久戦。先手が細かく動いてポイントをあげていったのではないかと思われます。
                                     
 1九にいた飛車が寄った局面。1筋に回ることで後手の金を2三に上げさせたのでそこではお役御免。今度は4筋から動いていこうという意図でしょう。
 後手はここで☖9四角と打ちました。状況が芳しくないとみて勝負をしにいったのだと思います。ですが動かずに待っていた方がここではよかったのかもしれません。
 先手は☗7九飛と回りました。すぐに☖7六角と取るのは☗6五桂が角と桂馬の両取りになってしまうので☖7二銀と引いて受けました。
 この間に先手は☗4六歩☖同歩☗同銀で一歩を入手。後手はここで☖7六角ですが☗6五桂と跳ね仕方がない☖8七角成に☗7三桂成☖同銀と桂馬を捌いて☗4五歩と4筋を制圧しました。
                                     
 後手は馬を作ることはできたものの先手の桂馬が捌けて4筋の位を奪ったポイントの方が大きかったようです。ここでは後手も待っていられないので☖4五同桂と取っていきましたが,うまく対応した先手が押し切りました。
 菅井七段が挑戦者に。タイトル戦は初出場となります。

 第四部序言の文章は,それが存在existentiaに決定される原因と働きactioに決定される原因は,Deusにあっても自然にあっても同一であるといっていると解釈できないこともありません。この一文が含まれている段落は,神が何らかの目的のために存在したり働いたりするのではないということを示すことを主眼としているといえ,その脈絡から僕はこの解釈は採用しませんが,もしこのように解釈されるのであっても,神は能産的自然Natura Naturansとだけ等置されなければならないということがいえると僕は考えます。
 この解釈によれば,等置されているのは主語の部分ではなく,述語の部分であることになります。つまり存在する原因と働く原因が等置されているのです。そしてその場合には,主語が神であれ自然であれ同じ述語によって説明できるということになるので,主語の部分は等置されていようとされていまいと関係ありません。というよりも,述語部分が等置できるのであれば,主語の部分は等置されていない方が,よりその主張を明瞭にできる筈ですから,等置されていないと解釈する方が安全であるとさえいえるでしょう。
 したがって,このように解釈される場合に実際に何が等置されているかといえば,あるものが存在に決定される原因の規則と働きに決定される原因の規則が同一であるということです。実際にはその規則はスピノザの哲学においては神の本性の必然性つまり法則であるということになります。ということは,このような解釈から帰結するのは,二種類の因果性は存在しないということになるでしょう。いい換えれば,神が存在および働きに決定される原因と,自然が存在および働きに決定される原因とは,同一の原因であるということです。
 すでに何度か示したように,僕は『エチカ』には二種類の因果性があるわけではなく,垂直と水平の因果性は同一の因果性であると考えます。ですが,第四部序言のこの部分がスピノザがそのことを主張している根拠になるとは考えません。僕はこの解釈をこの部分に対しては採用しないからです。ただ,神と等置することができる自然は,能産的自然に限られるということは,どちらの場合でも同じだといっておきます。
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農林水産大臣賞典日刊スポーツ賞北海道スプリントカップ&神即自然

2017-06-09 19:06:06 | 地方競馬
 昨晩の第21回北海道スプリントカップ
 最初は3頭が並んでいましたが最内にいたニシケンモノノフが単独でハナへ。これをアウヤンテプイとコールサインゼロが並んで追う形に。ゴーイングパワーが4番手でショコラブランが5番手。ウルトラカイザー,メイショウノーベルの順で追い,中団にスザクとシセイカイカ。さらにケイリンボスとスノードラゴンが追走。このあたりまで馬群は密集していました。前半の600mが33秒8のミドルペース。
 3コーナーを回るとゴーイングパワーが内から進出して2番手にいた2頭と並んでニシケンモノノフの後ろが3頭で雁行。ショコラブランはコールサインゼロのさらに外へ。直線に入るとコーナーワークで後ろとの差をやや広げたニシケンモノノフがそこでつけた差をさらにワンサイドで広げていき,最後は4馬身の差をつけるレコードタイムで圧勝。外のショコラブランのさらに外からスノードラゴンが伸びてきて,白い馬が並んで2着争いになりましたが,追撃を凌いだショコラブランが2着は確保。スノードラゴンはクビ差で3着。
 優勝したニシケンモノノフ兵庫ゴールドトロフィー以来の勝利で重賞3勝目。近況と実績からは勝つ可能性が最も高い馬と考えていましたが,こんなに差をつけることができるとは思っていませんでした。自分のペースで走ることができたことがその最大の要因だったのでしょうか。おそらくタイムが早くなる馬場状態の方が適性が高く,1400mでの実績が目立ってはいましたが,1200mの方がよかったのかもしれません。父はメイショウボーラー。三代母の半弟に1985年の大阪杯を勝ったステートジャガー
 騎乗した横山典弘騎手と管理している庄野靖志調教師は北海道スプリントカップ初勝利。

 自然を二分化して考えるのは,スピノザの哲学に独特の解釈ではありません。おそらくスピノザはそれを,スコラ哲学から受け継いだと思われます。その二分法というのは,産出する自然としての能産的自然Natura Naturansと,産出される自然としての所産的自然Natura Naturataです。ただし,スピノザはそれらが具体的に何を意味しなければならないかということについては,内容を一新しました。つまり語句だけは受け継いだのだけれども,その語句が意味しなければならないことについては受け継がなかったのです。
                                     
 では能産的自然と所産的自然とをどのように解さなければならないとスピノザが考えていたのかといえば,それは第一部定理二九備考に示されている通りです。そしてこの備考Scholiumを読めば明白なように,すでにスピノザは『エチカ』のこの時点で,神Deusと能産的自然とを等置しています。しかし所産的自然については,神の属性attributumの様態modusと等置されているのですから,神そのものとは等置されていないといわなければなりません。すなわち能産的自然が神自身であるとすれば,所産的自然とは神自身というより様態的変状modificatioに様態化した限りでの神であるといわなければならないのです。
 したがって,第四部序言において神あるいは自然Deus sive Naturaといういい方で神が自然と等置されるとき,それは能産的自然のことであって,所産的自然のことではないのではないかと僕は考えます。よって,この部分でスピノザが神即自然といっていて,なおかつそれを汎神論と結び付けることが可能であるということについては僕は否定はしませんが,その場合にも神即自然といわれるときの自然とは自然一般,いい換えれば能産的自然と所産的自然を含む全自然というように解するのは適切ではなく,能産的自然だけを意味すると解するのが適切なのだと考えます。
 ただし,第四部序言で神あるいは自然といわれている部分の文章の全体は,解釈の視座を変更した場合には,そこでいわれている自然というのが,能産的自然だけを意味するのではなくて,所産的自然まで含んだ全自然であると解せることも僕は認めます。ですがその場合には,神と自然は等置されているわけではないという解釈が必要だと思います。
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東京ダービー&第四部序言

2017-06-08 19:32:39 | 地方競馬
 昨晩の第63回東京ダービー。サヴァルジャンが左の前脚の蹄の底に内出血を起こしたために出走取消となって15頭。
 逃げなければ力が出せないサイバーエレキングがここもハナへ。2番手にはカンムル。3番手は内にブラウンレガート,外にシェアハッピー。これらの後ろをヒガシウィルウィンが追走。6番手にクラトリガー,7番手にポッドルイージとなり,ソッサスブレイとキャプテンキングは中団からのレースに。前半の1000mは63秒4のミドルペースになりました。
 サイバーエレキングは3コーナー手前から後退。自然にカンムルが先頭に立ち,シェアハッピーも続きました。この直後にヒガシウィルウィンが続き,ブラウンレガートは手を動かしながら追い掛け,キャプテンキングも手を動かしながら大外を追撃。ただ,余裕をもって3番手に続くことができたヒガシウィルウィンが直線で先頭に立つと,あとはワンサイドで後ろを引き離していき6馬身差で圧勝。おそらく手応えから苦し紛れに内を突いたブラウンレガートが一旦は2番手に上がりましたが,大外のキャプテンキングがこれを捕まえて2着。ブラウンレガートが4分の3馬身差で3着。今年は実力差が明瞭に判明しているので,波乱の余地は少ないとみていましたが,その通り,実力上位馬が着順でも上位を占めました。
 優勝したヒガシウィルウィン京浜盃以来の勝利で南関東重賞は3勝目。前走は2着馬に負けていましたが,あのレースはマッチレースに近い形態で,マッチレースはどうしても先行した方が有利になるので,それで少差なら展開如何で逆転可能と考えていました。このレースの着差ほどの能力差があるわけではなく,よいライバル関係を維持していくのではないかと思います。将来的にも期待していい馬ではないでしょうか。父はサウスヴィグラスプロポンチスグランドターキンの分枝。半姉に昨年の東京湾カップを勝っている現役のディーズプリモ
 騎乗した船橋の森泰斗騎手は京浜盃以来の南関東重賞制覇。東京ダービーは初勝利。管理している船橋の佐藤賢二調教師は第47回以来16年ぶりの東京ダービー2勝目。

 スピノザの哲学が汎神論とみなされる場合に,単に自然Naturaのうちに存在するのが神自身と様態的変状modificatioに様態化した神Deusだけであるということのほかに,別の種類の観点があります。それは,スピノザが神と自然を同一視しているという観点です。スピノザがそのような考え方をしていることを主張するために,よく援用される一文があります。それは『エチカ』の第四部序言の中にある以下の文章です。
                                     
 「したがって神あるいは自然(Deus sive Natura)が何ゆえに働きをなすかの理由ないし原因と,神あるいは自然が何ゆえに存在するかの理由ないし原因とは同一である」。
 この文章を構造的に把握してみます。すると,それが働きをなすagereことと存在することの原因causaが同一であるという述語部分の主語にあたるのは,神であっても自然であっても構わないというようになっていると分かります。しかるに主語が神でも自然でも同じなら,神と自然は同じものと解されているといえるでしょう。このゆえにこの一文が,スピノザは神と自然を同一視しているということの根拠として援用されることになるのです。
 少なくとも文章の構造からみる限り,僕はそのような主張は妥当だし合理的なものであると考えます。岩波文庫版の訳者である畠中尚志は,文章の主語に該当する当該部分を,神あるいは自然と日本語に翻訳しました。ですがこの部分は,あるいはと訳される必要があるわけではありません。神ないしは自然と訳されてもよかったでしょうし,神すなわち自然と訳されていたとしても,原語のラテン語siveの意味がどのようなものであるかということを別にすれば,誤訳であるとはいえないでしょう。要するにこの文章では明らかに神と自然が等置されているのだと僕は考えます。汎神論は神即自然といわれることがあるのですが,まさにこの部分は,神即自然と訳されてもおかしくないような意味をもっていると僕は考えるのです。
 ただし,ここで神と等置されている自然というのが,いわゆる自然,すなわち様態modusとしての自然であると解してよいのかということについては,僕はいささかの疑問も抱いています。なぜなら,スピノザは自然というのを,二分化して考えているからです。
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女流王位戦&汎神論

2017-06-07 19:42:12 | 将棋
 徳島市で指された第28期女流王位戦五番勝負第四局。
 伊藤沙恵女流二段の先手で里見香奈女流王位の三間飛車。先手は向飛車にして相振飛車に。先手が3筋から速攻をかけ,対する先手の受け方は僕には驚きでした。あの分かれはさすがに後手に分があったのではないかと思います。その後,先手が逆転し,また後手が逆転という流れだったのではないでしょうか。
                                     
 先手が4一の飛車で6一の金を取った局面。これは☖同銀とは取れません。放置しておいても詰めろですが,駒を使わせれば詰めろが解けるので,コメントにある通り☖3八飛と王手をするのは有力だったと思われます。ですが☖8六角と打ちました。23分考えたということですから,後手はこれで勝ちという判断の下の指し手だったと推測します。
 先手は持ち駒は使えないので☗7七桂と跳ねました。注目の継続手は☖8八飛でこれには☗7八歩。歩なら使っても大丈夫です。後手は☖7五角で詰めろを消して☗8五桂の王手に☖同飛成と進めました。角は取られましたが急所の桂馬を外し,龍の利きも通して自玉は安全という判断だったのだと思います。
 先手は取った角を☗7一角と打ちました。ここは☖8二歩と受ける手もあり,先手玉を攻めることだけ優先するならその方がよかったでしょう。しかし☖8二銀と打ちました。受けることを重視するなら間違いなくこの方がいいでしょう。
 ここで☗7六銀とただのところに打ったのが凄い手でした。これは☖同龍☗7二龍で後手玉が詰めろになるようにしたものです。
                                     
 第2図で後手は☖5七角成から詰ましにいきましたがこれは詰まないので先手の勝ちに。なので☖7六同龍のところは☖7一銀☗8五銀☖8一銀と進めるべきだったかもしれませんし,第2図で☖8七龍でもまだ難しいところが残ったかもしれません。ですが☗7六銀を褒めるべき将棋だったのではないかと思います。
 伊藤二段が勝って2勝2敗。第五局は27日です。

 『スピノザの哲学』と関連した話題からは逸れますが,本性の必然性を巡る考察は,スピノザの哲学が汎神論とみなされることと関連するのではないかと僕は考えています。僕自身はスピノザの哲学を汎神論とみなすのは好ましいことではないと考えているのですが,もしそれを汎神論であるとみる場合でも,どのような意味において汎神論であるといえるのかということに関する私見をここで述べておきましょう。
 汎神論というのは,万物に神が宿るというようにイメージされることが多いのではないかと思います。スピノザの哲学がそのような哲学であるといえないことはないと僕は考えていますが,そのように解することにはある危険性も伴っていると僕はみています。
 第一部公理一の意味は,自然のうちには実体substantiaと実体の変状substantiae affectioだけが存在するということです。そして第一部定理一四から,実在する実体は神Deusだけであるということが分かります。したがって自然のうちに実在するものは,神であるかそうでなければ神の変状であるかのいずれかになります。これはつまり,自然のうちに実在するのは,神そのものであるか,そうでなければ様態的変状modificatioに様態化した神であるかのどちらかであるということです。すると,万物に神が宿るといわれる場合の万物は,様態的変状に様態化した神であるということになるでしょう。この意味において,確かにスピノザは万物に神が宿るといっているのであり,スピノザの哲学を汎神論とみなす有力な根拠となり得るだろうと僕は思います。
 けれども,万物に神が宿るということは,同時に万物が信仰fidesの対象objectumになるということを意味するように僕には思えるのです。そして汎神論が確かにそのような意味を有するのであるとしたなら,スピノザの哲学は汎神論ではありません。これはちょうど,スピノザの哲学における神の存在は,信仰の対象としてあるのではなくて,認識cognitioの対象としてあるということと同じ関係です。様態的変状に様態化した神というのは,信仰の対象としての神ではありません。これは第五部定理二四で,個物res singularesを第三種の認識cognitio tertii generisで認識するintelligimusことが神を認識するDeum intelligimusことと等置されていることから明白だといえます。
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水戸黄門賞&管理と操縦

2017-06-06 19:15:04 | 競輪
 取手記念の決勝。並びは新山‐佐藤の北日本,吉沢‐武田の師弟に志村の関東,吉田‐芦沢の茨城別ラインで古性と山本は単騎。
 志村がスタートを取って吉沢の前受け。4番手に新山,6番手に吉田,8番手に古性,最後尾に山本で周回。残り2周のホームに入る手前から吉田が上昇の構えをみせると新山が反応。まず新山がホームで吉沢を叩くと佐藤の後ろに古性がスイッチ。吉沢がその後ろでしたがバックに入ってから山本がインを上昇,古性の後ろに入りました。吉田は新山を叩きにいったのですが,新山は絶対に出させないという競走をしたため位置を上げられず,最終周回の1コーナーを出ると外に浮いてしまって脱落。その後で吉沢が発進。3番手にいた古性が先捲りを狙ったものの吉沢が楽に前に出ました。吉沢の後ろの武田が古性に絡まれるような展開になったため,そのまま吉沢が差を広げて優勝。武田も古性を振り切って1車身半差の2着に続き地元のワンツー。古性が半車身差で3着。
 優勝した茨城の吉沢純平選手は昨年8月の豊橋記念以来となる記念競輪2勝目。このレースは地元のエースで師匠の武田がマークした吉沢に先行意欲が高く,場合によっては新山か吉田との先行争いになるのではないかと想定していて,その場合には両者のうち先行争いをしなかった方の捲りが決まるのではないかと思っていました。しかし実際には吉沢が前受けして引き,逃げた新山も吉田と先行争いをしないように早いうちから目一杯に駆ける展開となり,むしろ吉沢にとって絶好になりました。武田が古性と絡むような形にならなければもっときわどい争いになったかもしれませんが,前回とは異なって自力を使っての優勝ですから,その部分は評価してよいのではないかと思います。

 自然法則や自然法lex naturalisはDeusの本性の必然性と同一です。このために,僕たちに対して神は,必然性necessitasとして顕現するという意味合いがスピノザの哲学にはあるのです。だからこそ,神が第一部定義一にいわれる自己原因causam suiであって,かつ自己原因であるのは神だけであるということが,僕たちが神を認識するcognoscereにあたって,神の存在existentiaと大きく関連する第一部定義六と,同じくらいの重要性を有すると僕は考えるのです。
 神の本性essentiaが必然性すなわち法則として僕たちに現れるということは,積極的な意味を有すると同時に,ある消極的な要素も有しています。すなわち,それが法則として現れるということは,意志voluntasとして現れるとか善意として現れるということを否定する意味を有するからです。実は僕が重要だと考えるのは,むしろこの消極的な意味においてです。神は僕たちに対して,神の意志としては現れませんし,神の善意としても現れないのです。これは意志については第一部定理三二系一が,善意としては第一部定理三三備考二の意味が示している通りです。そして積極的には,第一部定理二九がこれを示しているといえるでしょう。
                                     
 『スピノザの哲学』では,神が一切の原因causaであるということが,神が管理者であるということ,また神が操縦者であるということと等置できるように記述されていました。このような桂の記述に対して注意しておかなければならないことが,ここには含まれているといえるでしょう。確かに神は万物を管理し,また万物を操縦するといえないことはありません。ですがそれは本性の必然性として,すなわち法則として管理するのですし,また操縦するのです。僕たちに神がこのような本性の必然性として顕現するのはこのためです。しかし神は意志によって万物を管理したり操縦したりするのではありません。同様に善意によって管理したり操縦したりするのではありません。自然Naturaのうちに生じることは神の本性の必然性によって生じるのであり,神の自由意志voluntas liberaや神の善意あるいは場合によっては悪意によって生じるのではないのです。つまり神が管理者や操縦者であるのだとしても,神があたかも独裁者のように振舞うというわけではないのです。
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悪霊 別巻&本性の必然性

2017-06-05 19:13:15 | 歌・小説
 『謎とき『悪霊』』や『ドストエフスキー『悪霊』の衝撃』のような評論だけでなく,亀山郁夫には『悪霊』そのものの翻訳本もあります。そしてその別巻として,最初に『悪霊』が連載されたときには編集者によって排除されてしまった第二部の第九章だけを選抜して翻訳したものがあります。
                                     
 ここだけを選抜して翻訳するのにはある意図があります。実はこの部分には内容に異同がある3種類の原稿があるのです。この『悪霊 別巻』では,その3種類がそれぞれ訳され,その内容にどのような相違があるのかが分かりやすく示されています。単に各々の原稿の翻訳だけで構成されているわけではなく,冒頭に亀山による注意書きも含まれています。
 3種類がどのようなものかを簡単に説明しておきます。第一のものは初稿版です。『悪霊』は「ロシア報知」という雑誌に掲載されたのですが,これは最初にドストエフスキーが雑誌の編集者に送り,誤字や脱字等の編集だけを受けたものです。ドストエフスキーは送られてきたその初稿に,加筆と修正を加えました。それが第二のもので,ドストエフスキー稿です。僕は『悪霊』は新潮文庫版で読みましたが,そこではこの部分は本文中ではなく巻末に入れられていて,その本文は初稿版で,ドストエフスキー稿との相違は分かるようになっています。つまりこれらふたつの訳は新潮文庫版でも読むことができます。なお,この部分は第二部第九章ですが,ドストエフスキー稿では第十部第一章となっています。ただ,もし本文に挿入されるのなら,その位置は同じです。
 このほかに,ドストエフスキーの死後に夫人であるアンナが清書した原稿というのがあって,これが第三のアンナ稿です。初稿とドストエフスキー稿はドストエフスキーによる加筆と修正の相違があるだけですが,このアンナ稿はそれらとの相違はより大きくなっています。なお,初稿とドストエフスキー稿には中途に脱落があり,アンナ稿は中途で終了していて未完です。
 この部分は独立したものとして読んでも十分に楽しめます。相違を知りたい人だけが読むべきものではなく,ドストエフスキーによる短編を読みたいという場合にも読む価値があるものだと思います。

 は自己原因causa suiなので,神の本性natura,essentiaのうちに神が存在することが含まれています。これが神の存在を決定する法則です。スピノザが神の本性の必然性necessitasというとき,その原点はこの法則にあると解してよいでしょう。いい換えれば,スピノザがいう必然性とは法則のことにほかならないと考えて間違いではないということです。
 神は単に神自身の存在existentiaを決定する原因であるのではありません。神は自己原因であるといわれるのと同じ意味において万物の原因でした。同時にそれは,単に万物が存在する原因であるということを示すだけではなく,万物の本性の原因であるということも示すのでした。したがって,万物が存在に決定される法則,また同時に万物の本性が決定される法則は,神の本性によって神の存在が決定されるその法則と同一の法則でなければなりません。そうでないと神が自己原因であるというのと神が万物の原因であるということが同じ意味となり得ないからです。
 僕はかつてスピノザの哲学には二種類の因果性があるかないかということについて詳しく探求したことがあります。そのときには,第一部公理三を援用して,原因と結果との間の必然性は,どのような場合にあっても同一の必然性でなければならないので,種類によって,いい換えるなら数的に区別できるような複数の因果性があってはならないという観点から,その必然性は「唯一」でなければならないと結論しました。すなわちいわゆる垂直と水平の因果性は,実際には同一の因果性であると考える必要があるといったのでした。それと同じように,神が自己原因である必然性すなわち法則と,神が万物の本性および存在の原因であるという必然性は,同一の必然性でなければならないのです。
 すると,僕たちが自然のうちに認識するような必然性すなわち法則は,神の本性の必然性すなわち法則と同一の必然性でありまた法則であるということになります。つまり僕たちが一般的に自然法則というものは,神の本性の必然性にほかなりません。このことは延長の属性Extensionis attributumにも思惟の属性Cogitationis attributumにも同様に妥当するのですから,僕たちが自然法lex naturalisと解するものも実は自然法則と同一であることになります。
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農林水産省賞典安田記念&神の本性

2017-06-04 19:03:56 | 中央競馬
 第67回安田記念
 グレーターロンドンはほかの馬よりいささかダッシュ力が劣りました。外の方からロゴタイプが主張してハナへ。ディサイファ,サンライズメジャー,ブラックスピネル,ヤングマンパワーの4頭が2番手集団を形成。好位にはコンテントメント,クラレント,イスラボニータの3頭。中団の前目にトーキングドラムとステファノス。ビューティーオンリーを挟んでグレーターロンドンとロジチャリス。後方にレッドファルクスとサトノアラジンで,エアスピネルが後方3番手。アンビシャスとロンギングダンサーが最後尾に。前半の800mが45秒5のミドルペースで,先頭から最後尾までさほどの差がつきませんでした。
 直線に入るところではロゴタイプ,サンライズメジャー,ブラックスピネル,ヤングマンパワーの4頭が雁行状態。直線に入ると逃げたロゴタイプが早めに追い出され,追い掛けてきた馬たちとの差を一気に広げました。このために中団より前にいた馬たちは総崩れとなり,追い掛けてきたのは後方に位置していた馬たち。このうち先行集団のすぐ外から脚を使ったサトノアラジンがロゴタイプを捕えて優勝。逃げ粘ったロゴタイプがクビ差の2着。大外から追い込んだレッドファルクスがクビ差で3着。ロゴタイプと先行勢の間を割ったグレーターロンドンがクビ差の4着でエアスピネルがまたクビ差で5着。
 優勝したサトノアラジンは昨年のスワンステークス以来の勝利。重賞は3勝目で大レースは初制覇。持ち味は鋭い末脚で,勝ちタイムが早いレースを得意とする馬。前走は大敗でしたが,これは重馬場の影響ですから度外視はできたところ。ただ,これまでの戦績から1400mがベストではないかと考えていたので,僕は軽視してしまいました。マイル路線は強い馬がいたために勝てなかっただけで,それがいなくなれば力量上位であったということでしょう。今後もいいタイムが出る馬場状態であるか否かが,好走できるかどうかのポイントになってくるでしょう。父はディープインパクト。全姉に2014年のエリザベス女王杯を勝ったラキシス。安田記念は6歳馬と体重が500㎏以上の馬が好走するという傾向にあるのですが,その傾向と合致した馬の優勝でした。
                                     
 騎乗した川田将雅騎手は昨年の日本ダービー以来の大レース制覇。第65回以来2年ぶりの安田記念2勝目。管理している池江泰寿調教師は皐月賞以来の大レース制覇。安田記念は初勝利。

 スピノザがいうDeusを正しく理解するために神の存在と同等の重要性を有していると僕が考えているのは,神は第一部定義一でいわれている自己原因causam suiであり,かつ自己原因であるものは神だけであるという点です。
 スピノザと同時代的にいえば,『スピノザ 共同性のポリティクス』でもいわれているように,自己原因というのは原因がないものというほどの消極的なものでした。それをスピノザは本性が存在を含むものcujus essentia involvit existentiamという積極的なものとして示したのです。ただし,それはそうしたものが自己原因といわれなければならない必然性を含むわけではありません。『近世哲学史点描』で示唆されているように,スピノザは自己原因に関わる論争に決着をつけるために意図的にそういういい方をしたのであり,このことは確かにその時代においては重要でしょうが,歴史的な意味で重要だということであり,神を理解するにあたっては考えなくても構いません。というのは,本性に存在が含まれているということが内容としては大切なのであり,それが自己原因といわれるかどうかは問う必要がないからです。
 ただ,スピノザが自己原因を積極的に定義したということのうちには,単に自己原因だけが積極的に定義されたということだけが意味されているのではなく,この点が僕たちの神の理解にとっては欠くべからざる要素になるのです。なぜなら,第一部定理二五備考で,神が自己原因であるというのと万物の原因omnium rerum causaであるということは同じ意味であるという主旨のことがいわれているからです。このためにスピノザの哲学における自己原因と原因の関係は,自己原因をそれ自身が原因であるという意味に解すべきではなく,原因とは外部のものと一体化した意味で自己原因であるという具合に解すべきであるということが出てくるからです。そして同時に,第一部定理二五がいっているように,神は万物の存在の原因causa efficiens rerum existentiaeであるだけでなく,万物の本性essentiaeの原因でもあるのですから,このように神の本性を理解することと,万物の本性を理解することとを切り離しては考えることができないようになっているのです。この意味において,僕はこの理解が神の本性と関係するというのです。
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第四部定理九系&神の存在

2017-06-03 19:13:49 | 哲学
 第四部定理九には系Corollariumがひとつあります。証明Demonstratioはなく,系自体がとても長い文章になっています。
                                     
 「未来あるいは過去の物の表象像,言いかえれば現在のことは度外視して未来あるいは過去の時に関連させて観想する物の表象像は,その他の事情が等しければ,現在の物の表象像よりも弱い。したがって未来あるいは過去の物に対する感情は,その他の事情が等しければ,現在の物に対する感情よりも弱い」。
 スピノザがこの系において主にいいたかったのは,二番目の文章だと思います。すなわち,未来や過去に関係する感情affectusよりは現在に関係する感情の方が強力であるということです。このために,たとえば現在においてその喜びlaetitiaを回避することによって未来においてより大きな喜びが得られると分かっている場合でも,えてして現実的に存在する人間は,目の前にある小さな喜びの方を選んでしまうのです。実際にはこのことは,スピノザがここでいっていることとは異なるのですが,未来に関連する喜びが小さく感じられるからだという理由によって説明することはできるので,この系から帰結し得る事柄なのは間違いありません。そしてそうであるならこのことは第四部定理九から直接的に帰結するのであって,論証が不要であるのも理解できるでしょう。
 最初の文章で,表象像imaginesが強いとか弱いといわれるのは不思議な感じもしますが,おそらくそれは次のような意味です。
 第二部定理一七は,人間の精神のうちにある表象像は,別の表象像によって排除されるという意味を含んでいます。このとき,過去および未来と関連する表象像は,現在と関連する表象像よりも,より容易に排除されるのです。この意味で,現在の表象像すなわち表象の種類でいえば知覚は強く,過去または未来に関係する想起と想像は弱いのです。実際に想起や想像が知覚によって排除されるということが多いのに対し,知覚が想像や想起によって排除されることは少ないでしょうから,このことは経験的にも僕たちは理解しているといえるのではないでしょうか。

 正しくいうなら,Deusが絶対に無限absolute infinitumであることは神の本性natura,essentiaであり,神が自己原因causa suiであるということはその神の本性から必然的にnecessario帰結する神の特質proprietasであるというべきでしょう。けれども僕は,このふたつの事柄は,僕たちが神を十全に認識するに際して同等の重要性を有していると考えています。というのは,前者は神に対して,後者は自己原因に関して,スピノザに独自の解釈,伝統的な解釈から大きく外れるような解釈を含んでいると考えるからです。
 スピノザがフッデJohann Huddeに宛てた書簡三十六を読むと,どうやらフッデは絶対に無限な実体substantiaのことを神というということが理解できていなかったということが分かります。それは端的に,この時代において神をそのように概念するconcipereということが,異色であると認定されていたからだと思われます。ではフッデは神をどのようなものと認識していたのかといえば,おそらく聖書に記述されているようなものとして解釈していたのです。つまりそれは信仰fidesの対象objectumとなり得るような神です。それに対していえば,絶対に無限な実体というのは,そうしたものが必然的に存在しなければならないということは理解できるにしても,信仰の対象となり得るような存在ではありません。つまりスピノザが定義しているような神は,人間にとって認識cognitioの対象subjectumとはなり得るものですが,信仰の対象とはなり得ないものなのです。
 あなたは神を信じますか,という問い掛けは,現代でも十分に成立するのではないでしょうか。それが成立するのは,神は存在するのかということは,信じるか信じないかに二分されるということが暗黙裡に前提されているからです。ということは,スピノザが生きていた時代も,現代も,神に関係する言説の中心あるいは背後を支えている状況は,あまり変化していないといえるのかもしれません。あえていいますが僕は神が存在するということを信じているのではありません。僕は神が存在するということを知っているのです。
 第一部定義六は,このような観点の変化を含んでいます。そのゆえにスピノザがいう神を理解する場合に,それが絶対に無限な実体であるということは欠くべからざる要素だと僕は考えます。
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棋聖戦&神

2017-06-02 19:16:04 | 将棋
 淡路島で指された昨日の第88期棋聖戦五番勝負第一局。対戦成績は羽生善治棋聖が1勝,斎藤慎太郎七段が0勝。
 振駒で斎藤七段の先手。矢倉の出だしから後手が急戦,先手が早囲いを含みに進めていき,クラシカルな形の先後同型に落ち着きました。昔の相矢倉らしい攻め合いになりましたが,分かれは少しだけ先手に分があったようです。
                                     
 後手が☖7七歩と垂らして先手が取った局面。ここで☖7五角といったのはこれしかない手だったようです。
 先手は☗同歩と取ったのですが,☗同角と取った方がよかったようです。また,感想戦の手順と実戦のこの後の展開を総合すると,ここでいきなり☗4四角としてしまうのも有力であったかもしれません。
 後手は☖8六歩と突いて先手は☗同歩と取りました。ここでも☗4四角はあったという感想が残っています。後手は☖6七歩と打ちました。
                                     
 先手はここで☗4四角として詰ましにいきました。実戦の手順は少しややこしくなったのかもしれませんが,逃れていました。☗同飛と取ってから☖7六銀に☗4四角の方が難しかったようです。勝ちと思っていたようなので仕方がありませんが,結果的に☗4四角のタイミングが勝敗を分けることになった一局だったといえそうです。
 羽生棋聖が先勝。第二局は17日です。

 現代の日本人の読者にとっては有益なスピノザの哲学の入門書がいくつもあります。ですからスピノザの哲学の入門書として『スピノザの哲学』を講読することは僕はお勧めしません。当然ながら現代の入門書はある程度の歴史が踏まえられた上で書かれたものですから,入門書として読むなら新しいものの方が有益であると僕は考えるからです。むしろ日本におけるスピノザの哲学の研究を歴史的に把握しようとする場合に読むことをお勧めします。というか,そういう意図を有しているなら桂の著作は読まなければならないとさえいえると思います。
 とはいえ,僕は桂の記述については,2点ほど気になるところがありました。なのでそれについては僕の考えを記しておくことにします。
 第二章第三部の中に,スピノザの哲学では神Deusが一切の原因causaであり管理者であり操縦者であると考えられているという主旨に読める記述があります。このうち,神が一切の原因であるというのはその通りであって僕も同意します。しかし,管理者とか操縦者というとき,桂が何を意味しようとしているかを別にすれば,僕はこのようないい方は誤解を産出するだろうと思います。というのもこのいい方は明らかに神を人格的に理解する方向に思惟Cogitatioを推進させると思うからです。たぶん僕たちが普通にイメージするような意味においては,神は管理者でも操縦者でもないと僕は考えます。
 スピノザが神というとき,それを十全に理解する上で欠かせない要素はふたつあると僕は考えています。ひとつは第一部定義六でいわれているように,神が絶対に無限な実有ens absolute infinitum,無限に多くの属性から成っている実体substantiam constantem infinitis attributisであるということです。このことは神の存在existentiaと関わります。第一部定理一一第三の証明が明らかにするように,この定義Definitioそのものから神が必然的にnecessario存在することが帰結するからです。この場合,神の存在が人間の存在と,思惟の上では切り離せることになります。
 もうひとつは第一部定義一で,本性が存在を含むものcujus essentia involvit existentiamが自己原因causam suiであるといわれるとき,神だけが自己原因であるという点です。このことは神の本性essentiaと関係します。この場合には神の本性と人間の本性が切り離せません。
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女流王位戦&スピノザの哲学

2017-06-01 19:12:44 | 将棋
 旧伊藤伝右衛門邸で指された昨日の第28期女流王位戦五番勝負第三局。
 里見香奈女流王位の先手で三間飛車。伊藤沙恵女流二段は向飛車にして相振飛車となりました。
                                     
 2筋で歩を交換した後手が高飛車に構えたのは先手の動きを牽制するためだったと思われます。しかし先手は21分の考慮で☗6六銀と上がりました。これは実戦のように☖8五飛と回られたときに☗7七金と上がって飛車成りを受けるほかなく,一時的に悪い形になります。それでも大丈夫という何らかの見通しは立てていたものでしょう。
 ☖2五飛と戻るのは手損ですが,先手が金を元の位置に戻そうとすればより大きな手損となりますから,それほど大きな損とはいえないでしょう。先手は☗7六金と上がってこの金を攻めに使う方針に進めました。こういうのは事前に研究していたとは考えにくいのでその場での判断でしょう。少なくとも先手が想定していたのとはかなり違った展開になっていたのだと思われます。
 ☖3五歩☗5六歩☖2四飛☗5五歩☖4五歩☗9七角☖6四歩☗7五金☖6三金☗7六飛と進みました。
                                     
 ここで☖3四飛と回ったのが拙く,先に☖4一玉とするべきだったという感想があります。ですが第2図まで進めば金を攻めに使うという方針の顔はすでに立っているように僕には思えます。後手は先手が悪い形になっている間に攻めることができるのでなければ金を上がらせる意味は薄く,自分がよい形にできるまでに後手から動いてこないとみた先手の読みが優れていたという一局だったと思いました。
 里見王位が勝って2勝1敗。第四局は7日です。

 日本で本格的にスピノザの哲学の研究が始まった頃,スピノザの思想がどのようなものとして把握されあるいは受容されていたかということについては僕には若干の関心がありました。それがその後の研究の方向のすべてを決定するとはいえませんが,何らかの影響を与え得ることは確かだと思えるからです。極端なことをいえば,その受容のうちにある誤解が含まれていたとすれば,その誤解はしばらくの間は共有されかねません。したがって黎明期の研究は,思想自体の理解においてというより,研究の方向付けという意味でとりわけ重要性をもっているのだといえるでしょう。もちろんこれはとくにスピノザの哲学の研究に限定されることではありません。
 桂寿一は日本における黎明期のスピノザ哲学研究者として代表的存在といって過言ではありません。なので当時の状況を知るために,桂が網羅的にスピノザの哲学を紹介した『スピノザの哲学』を読むということは僕にとっては自然な流れでした。
 内容についていえばこれは入門書の域を出るものではありません。ある特定の主題について詳しく探求される箇所は皆無で,しかしスピノザの哲学思想において重要とみられる事柄については,簡潔にではあってもほぼ網羅されているといえるでしょう。政治論などへの言及もありますが,あくまでも哲学的観点を通してのもので,哲学に特化した入門書といえると思います。そして桂は基本的には,スピノザの思想そのものは,最初から最後まで一貫したものであったというように解していたと思われます。
 工藤喜作は最初はカントの研究を志していたけれども,学生時代にカントの研究者は多くいて芽が出ないだろうからスピノザを研究したらどうかとドイツ語の指導者に勧められてスピノザの研究を開始したそうです。これが桂が『スピノザの哲学』を執筆していたか,その少し前の頃のことと思われます。スピノザは現在でもさほど有名な哲学者ではないかもしれませんが,当時はほとんど知られていなかったといっていいのかもしれません。それを広く知らしめるという意図をもって書かれたのが『スピノザの哲学』だったといえるのではないでしょうか。
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