豊田市で指された第88期棋聖戦五番勝負第二局。
羽生善治棋聖の先手で角換り相腰掛銀。かつての定跡とは異なる互いに下段飛車での先後同型から後手の斎藤慎太郎七段は右玉へ。先手は左に囲って飛車を6筋に回るという戦型になりました。中盤で駒得できた分だけ先手がよくなっていたのかもしれません。
先手が7五に香車を打って後手が歩を叩いた局面。結論からすると第1図は先手の勝ちになっているようで,後手はここまでのうちに変化が必要だったことになりそうです。
先手は金取りを無視して☗7四香と取りました。これには☖7八歩成☗同王。後手は☖5四香と打って角筋を止めました。先手の桂馬が動いたら攻めにも効きそうな手です。
先手は☗6三桂成を決断。以下☖同金☗7三香成☖同玉☗8五桂打☖6二玉☗7三金☖同金まで進めて☗5四角と香車を取りました。
先手はほかにも勝ち方があったかもしれませんが,最も明快な手順を選べたようです。第2図は☖7六飛とも寄れなくなっているので☖7七歩と打ちましたが☗6八王で先手玉は詰まず,仕方ない☖9七飛成に後手玉を詰まして先手の勝ちになっています。
羽生棋聖が連勝。第三局は来月1日です。
『スピノザの哲学』では,観念ideaが事物に対して先行するということと少なくとも同時であるということが並列的に語られ,それがスピノザの哲学において要求されているとされています。ここまでの説明から明らかなように,永遠aeterunusであるということをも同時であるとみなす限りにおいて,Aの観念とAという事物の同時性はスピノザの哲学において要求されています。ですがAの観念のAという事物に対する先行性は要求されていません。むしろ否定されています。
ただし,観念の事物に対する先行性は,ある限定的な意味に解する限り,スピノザの哲学を理解するにあたって無益というわけでもありません。ひょっとしたら桂は単に事物の観念に対する先行性を否定するためだけにそのようないい回しをしたわけではないかもしれませんので,その点について僕の見解を表明しておきます。
僕たちが何かを認識するのは,僕たちの精神mensが神Deusの無限知性の一部である限りにおいてです。いい換えれば,僕たちが神の思惟の属性Cogitationis attributumによって説明される限りにおいてです。このことは認識するのは僕たちの精神であって僕たちの身体corpusではないということから明らかだといわなければなりません、したがって,もし僕たちが思惟する限りにおいて事物を認識するということをいいたいのであれば,僕たちの思惟は僕たちが認識する事物に対して先行しています。他面からいえば,思惟の全体は,思惟の対象subjectumとなる個別の事物に対しては先行しています。あるいは優越性を有します。無限知性intellectus infinitus,infinitus intellectusというのは思惟の属性の直接無限様態なので,第一部定理二一により,思惟の属性が存在するなら必然的にnecessario存在するような様態modiです。人間の精神が無限知性の一部とみなされる限りにおいて,このような見方は不可能ではないと僕は考えます。
とはいえ,延長の属性Extensionis attributumにもそれが存在すれば必然的に存在する直接無限様態があります。知性にとってはそれも認識の対象となり得るのですが,だから観念が事物に対して本来的な意味で先行するとはいえないでしょう。あくまでも僕たちは思惟する限りで事物を認識するという意味において,観念の先行性は不合理な解釈とはいえないというだけです。
羽生善治棋聖の先手で角換り相腰掛銀。かつての定跡とは異なる互いに下段飛車での先後同型から後手の斎藤慎太郎七段は右玉へ。先手は左に囲って飛車を6筋に回るという戦型になりました。中盤で駒得できた分だけ先手がよくなっていたのかもしれません。
先手が7五に香車を打って後手が歩を叩いた局面。結論からすると第1図は先手の勝ちになっているようで,後手はここまでのうちに変化が必要だったことになりそうです。
先手は金取りを無視して☗7四香と取りました。これには☖7八歩成☗同王。後手は☖5四香と打って角筋を止めました。先手の桂馬が動いたら攻めにも効きそうな手です。
先手は☗6三桂成を決断。以下☖同金☗7三香成☖同玉☗8五桂打☖6二玉☗7三金☖同金まで進めて☗5四角と香車を取りました。
先手はほかにも勝ち方があったかもしれませんが,最も明快な手順を選べたようです。第2図は☖7六飛とも寄れなくなっているので☖7七歩と打ちましたが☗6八王で先手玉は詰まず,仕方ない☖9七飛成に後手玉を詰まして先手の勝ちになっています。
羽生棋聖が連勝。第三局は来月1日です。
『スピノザの哲学』では,観念ideaが事物に対して先行するということと少なくとも同時であるということが並列的に語られ,それがスピノザの哲学において要求されているとされています。ここまでの説明から明らかなように,永遠aeterunusであるということをも同時であるとみなす限りにおいて,Aの観念とAという事物の同時性はスピノザの哲学において要求されています。ですがAの観念のAという事物に対する先行性は要求されていません。むしろ否定されています。
ただし,観念の事物に対する先行性は,ある限定的な意味に解する限り,スピノザの哲学を理解するにあたって無益というわけでもありません。ひょっとしたら桂は単に事物の観念に対する先行性を否定するためだけにそのようないい回しをしたわけではないかもしれませんので,その点について僕の見解を表明しておきます。
僕たちが何かを認識するのは,僕たちの精神mensが神Deusの無限知性の一部である限りにおいてです。いい換えれば,僕たちが神の思惟の属性Cogitationis attributumによって説明される限りにおいてです。このことは認識するのは僕たちの精神であって僕たちの身体corpusではないということから明らかだといわなければなりません、したがって,もし僕たちが思惟する限りにおいて事物を認識するということをいいたいのであれば,僕たちの思惟は僕たちが認識する事物に対して先行しています。他面からいえば,思惟の全体は,思惟の対象subjectumとなる個別の事物に対しては先行しています。あるいは優越性を有します。無限知性intellectus infinitus,infinitus intellectusというのは思惟の属性の直接無限様態なので,第一部定理二一により,思惟の属性が存在するなら必然的にnecessario存在するような様態modiです。人間の精神が無限知性の一部とみなされる限りにおいて,このような見方は不可能ではないと僕は考えます。
とはいえ,延長の属性Extensionis attributumにもそれが存在すれば必然的に存在する直接無限様態があります。知性にとってはそれも認識の対象となり得るのですが,だから観念が事物に対して本来的な意味で先行するとはいえないでしょう。あくまでも僕たちは思惟する限りで事物を認識するという意味において,観念の先行性は不合理な解釈とはいえないというだけです。