スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

水戸黄門賞&管理と操縦

2017-06-06 19:15:04 | 競輪
 取手記念の決勝。並びは新山‐佐藤の北日本,吉沢‐武田の師弟に志村の関東,吉田‐芦沢の茨城別ラインで古性と山本は単騎。
 志村がスタートを取って吉沢の前受け。4番手に新山,6番手に吉田,8番手に古性,最後尾に山本で周回。残り2周のホームに入る手前から吉田が上昇の構えをみせると新山が反応。まず新山がホームで吉沢を叩くと佐藤の後ろに古性がスイッチ。吉沢がその後ろでしたがバックに入ってから山本がインを上昇,古性の後ろに入りました。吉田は新山を叩きにいったのですが,新山は絶対に出させないという競走をしたため位置を上げられず,最終周回の1コーナーを出ると外に浮いてしまって脱落。その後で吉沢が発進。3番手にいた古性が先捲りを狙ったものの吉沢が楽に前に出ました。吉沢の後ろの武田が古性に絡まれるような展開になったため,そのまま吉沢が差を広げて優勝。武田も古性を振り切って1車身半差の2着に続き地元のワンツー。古性が半車身差で3着。
 優勝した茨城の吉沢純平選手は昨年8月の豊橋記念以来となる記念競輪2勝目。このレースは地元のエースで師匠の武田がマークした吉沢に先行意欲が高く,場合によっては新山か吉田との先行争いになるのではないかと想定していて,その場合には両者のうち先行争いをしなかった方の捲りが決まるのではないかと思っていました。しかし実際には吉沢が前受けして引き,逃げた新山も吉田と先行争いをしないように早いうちから目一杯に駆ける展開となり,むしろ吉沢にとって絶好になりました。武田が古性と絡むような形にならなければもっときわどい争いになったかもしれませんが,前回とは異なって自力を使っての優勝ですから,その部分は評価してよいのではないかと思います。

 自然法則や自然法lex naturalisはDeusの本性の必然性と同一です。このために,僕たちに対して神は,必然性necessitasとして顕現するという意味合いがスピノザの哲学にはあるのです。だからこそ,神が第一部定義一にいわれる自己原因causam suiであって,かつ自己原因であるのは神だけであるということが,僕たちが神を認識するcognoscereにあたって,神の存在existentiaと大きく関連する第一部定義六と,同じくらいの重要性を有すると僕は考えるのです。
 神の本性essentiaが必然性すなわち法則として僕たちに現れるということは,積極的な意味を有すると同時に,ある消極的な要素も有しています。すなわち,それが法則として現れるということは,意志voluntasとして現れるとか善意として現れるということを否定する意味を有するからです。実は僕が重要だと考えるのは,むしろこの消極的な意味においてです。神は僕たちに対して,神の意志としては現れませんし,神の善意としても現れないのです。これは意志については第一部定理三二系一が,善意としては第一部定理三三備考二の意味が示している通りです。そして積極的には,第一部定理二九がこれを示しているといえるでしょう。
                                     
 『スピノザの哲学』では,神が一切の原因causaであるということが,神が管理者であるということ,また神が操縦者であるということと等置できるように記述されていました。このような桂の記述に対して注意しておかなければならないことが,ここには含まれているといえるでしょう。確かに神は万物を管理し,また万物を操縦するといえないことはありません。ですがそれは本性の必然性として,すなわち法則として管理するのですし,また操縦するのです。僕たちに神がこのような本性の必然性として顕現するのはこのためです。しかし神は意志によって万物を管理したり操縦したりするのではありません。同様に善意によって管理したり操縦したりするのではありません。自然Naturaのうちに生じることは神の本性の必然性によって生じるのであり,神の自由意志voluntas liberaや神の善意あるいは場合によっては悪意によって生じるのではないのです。つまり神が管理者や操縦者であるのだとしても,神があたかも独裁者のように振舞うというわけではないのです。

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