徳島市で指された第28期女流王位戦五番勝負第四局。
伊藤沙恵女流二段の先手で里見香奈女流王位の三間飛車。先手は向飛車にして相振飛車に。先手が3筋から速攻をかけ,対する先手の受け方は僕には驚きでした。あの分かれはさすがに後手に分があったのではないかと思います。その後,先手が逆転し,また後手が逆転という流れだったのではないでしょうか。
先手が4一の飛車で6一の金を取った局面。これは☖同銀とは取れません。放置しておいても詰めろですが,駒を使わせれば詰めろが解けるので,コメントにある通り☖3八飛と王手をするのは有力だったと思われます。ですが☖8六角と打ちました。23分考えたということですから,後手はこれで勝ちという判断の下の指し手だったと推測します。
先手は持ち駒は使えないので☗7七桂と跳ねました。注目の継続手は☖8八飛でこれには☗7八歩。歩なら使っても大丈夫です。後手は☖7五角で詰めろを消して☗8五桂の王手に☖同飛成と進めました。角は取られましたが急所の桂馬を外し,龍の利きも通して自玉は安全という判断だったのだと思います。
先手は取った角を☗7一角と打ちました。ここは☖8二歩と受ける手もあり,先手玉を攻めることだけ優先するならその方がよかったでしょう。しかし☖8二銀と打ちました。受けることを重視するなら間違いなくこの方がいいでしょう。
ここで☗7六銀とただのところに打ったのが凄い手でした。これは☖同龍☗7二龍で後手玉が詰めろになるようにしたものです。
第2図で後手は☖5七角成から詰ましにいきましたがこれは詰まないので先手の勝ちに。なので☖7六同龍のところは☖7一銀☗8五銀☖8一銀と進めるべきだったかもしれませんし,第2図で☖8七龍でもまだ難しいところが残ったかもしれません。ですが☗7六銀を褒めるべき将棋だったのではないかと思います。
伊藤二段が勝って2勝2敗。第五局は27日です。
『スピノザの哲学』と関連した話題からは逸れますが,本性の必然性を巡る考察は,スピノザの哲学が汎神論とみなされることと関連するのではないかと僕は考えています。僕自身はスピノザの哲学を汎神論とみなすのは好ましいことではないと考えているのですが,もしそれを汎神論であるとみる場合でも,どのような意味において汎神論であるといえるのかということに関する私見をここで述べておきましょう。
汎神論というのは,万物に神が宿るというようにイメージされることが多いのではないかと思います。スピノザの哲学がそのような哲学であるといえないことはないと僕は考えていますが,そのように解することにはある危険性も伴っていると僕はみています。
第一部公理一の意味は,自然のうちには実体substantiaと実体の変状substantiae affectioだけが存在するということです。そして第一部定理一四から,実在する実体は神Deusだけであるということが分かります。したがって自然のうちに実在するものは,神であるかそうでなければ神の変状であるかのいずれかになります。これはつまり,自然のうちに実在するのは,神そのものであるか,そうでなければ様態的変状modificatioに様態化した神であるかのどちらかであるということです。すると,万物に神が宿るといわれる場合の万物は,様態的変状に様態化した神であるということになるでしょう。この意味において,確かにスピノザは万物に神が宿るといっているのであり,スピノザの哲学を汎神論とみなす有力な根拠となり得るだろうと僕は思います。
けれども,万物に神が宿るということは,同時に万物が信仰fidesの対象objectumになるということを意味するように僕には思えるのです。そして汎神論が確かにそのような意味を有するのであるとしたなら,スピノザの哲学は汎神論ではありません。これはちょうど,スピノザの哲学における神の存在は,信仰の対象としてあるのではなくて,認識cognitioの対象としてあるということと同じ関係です。様態的変状に様態化した神というのは,信仰の対象としての神ではありません。これは第五部定理二四で,個物res singularesを第三種の認識cognitio tertii generisで認識するintelligimusことが神を認識するDeum intelligimusことと等置されていることから明白だといえます。
伊藤沙恵女流二段の先手で里見香奈女流王位の三間飛車。先手は向飛車にして相振飛車に。先手が3筋から速攻をかけ,対する先手の受け方は僕には驚きでした。あの分かれはさすがに後手に分があったのではないかと思います。その後,先手が逆転し,また後手が逆転という流れだったのではないでしょうか。
先手が4一の飛車で6一の金を取った局面。これは☖同銀とは取れません。放置しておいても詰めろですが,駒を使わせれば詰めろが解けるので,コメントにある通り☖3八飛と王手をするのは有力だったと思われます。ですが☖8六角と打ちました。23分考えたということですから,後手はこれで勝ちという判断の下の指し手だったと推測します。
先手は持ち駒は使えないので☗7七桂と跳ねました。注目の継続手は☖8八飛でこれには☗7八歩。歩なら使っても大丈夫です。後手は☖7五角で詰めろを消して☗8五桂の王手に☖同飛成と進めました。角は取られましたが急所の桂馬を外し,龍の利きも通して自玉は安全という判断だったのだと思います。
先手は取った角を☗7一角と打ちました。ここは☖8二歩と受ける手もあり,先手玉を攻めることだけ優先するならその方がよかったでしょう。しかし☖8二銀と打ちました。受けることを重視するなら間違いなくこの方がいいでしょう。
ここで☗7六銀とただのところに打ったのが凄い手でした。これは☖同龍☗7二龍で後手玉が詰めろになるようにしたものです。
第2図で後手は☖5七角成から詰ましにいきましたがこれは詰まないので先手の勝ちに。なので☖7六同龍のところは☖7一銀☗8五銀☖8一銀と進めるべきだったかもしれませんし,第2図で☖8七龍でもまだ難しいところが残ったかもしれません。ですが☗7六銀を褒めるべき将棋だったのではないかと思います。
伊藤二段が勝って2勝2敗。第五局は27日です。
『スピノザの哲学』と関連した話題からは逸れますが,本性の必然性を巡る考察は,スピノザの哲学が汎神論とみなされることと関連するのではないかと僕は考えています。僕自身はスピノザの哲学を汎神論とみなすのは好ましいことではないと考えているのですが,もしそれを汎神論であるとみる場合でも,どのような意味において汎神論であるといえるのかということに関する私見をここで述べておきましょう。
汎神論というのは,万物に神が宿るというようにイメージされることが多いのではないかと思います。スピノザの哲学がそのような哲学であるといえないことはないと僕は考えていますが,そのように解することにはある危険性も伴っていると僕はみています。
第一部公理一の意味は,自然のうちには実体substantiaと実体の変状substantiae affectioだけが存在するということです。そして第一部定理一四から,実在する実体は神Deusだけであるということが分かります。したがって自然のうちに実在するものは,神であるかそうでなければ神の変状であるかのいずれかになります。これはつまり,自然のうちに実在するのは,神そのものであるか,そうでなければ様態的変状modificatioに様態化した神であるかのどちらかであるということです。すると,万物に神が宿るといわれる場合の万物は,様態的変状に様態化した神であるということになるでしょう。この意味において,確かにスピノザは万物に神が宿るといっているのであり,スピノザの哲学を汎神論とみなす有力な根拠となり得るだろうと僕は思います。
けれども,万物に神が宿るということは,同時に万物が信仰fidesの対象objectumになるということを意味するように僕には思えるのです。そして汎神論が確かにそのような意味を有するのであるとしたなら,スピノザの哲学は汎神論ではありません。これはちょうど,スピノザの哲学における神の存在は,信仰の対象としてあるのではなくて,認識cognitioの対象としてあるということと同じ関係です。様態的変状に様態化した神というのは,信仰の対象としての神ではありません。これは第五部定理二四で,個物res singularesを第三種の認識cognitio tertii generisで認識するintelligimusことが神を認識するDeum intelligimusことと等置されていることから明白だといえます。
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