スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

タクシー ドライバー&基本原理

2017-06-12 19:38:35 | 歌・小説
 「小石のように」は「親愛なる者へ」というアルバムに収録されています。このアルバムの中には僕が数多く聴いている歌がひとつ入っています。それが「タクシー ドライバー」です。
                                   
 この曲は,1台のタクシーに乗った女の心模様が中心に描かれ,そこにそのタクシーの運転手が絶妙な形で絡んできます。この女の心模様というのは概ね次のようなものです。

       笑っているけど みんな本当に幸せで
       笑いながら 町の中歩いてゆくんだろうかね
       忘れてしまいたい望みを かくすために
       バカ騒ぎするのは あたしだけなんだろうかね


 こんな心模様でタクシーに乗った女は運転手に次のように言うのです。

       ゆき先なんてどこにもないわ
       ひと晩じゅう 町の中 走り回っておくれよ
       ばかやろうと あいつをけなす声が途切れて
       眠ったら そこいらに捨てていっていいよ


 そう言われる運転手は,女にはこんな人と映っています。

       タクシー・ドライバー 苦労人とみえて
       あたしの泣き顔 見て見ぬふり
       天気予報が 今夜もはずれた話と
       野球の話ばかり 何度も何度も 繰り返す


 そんな運転手が自分のことを捨てていくわけがないと女は確信しているのです。だから安心して「捨てていっていい」と言うことができたのです。

 桂が意識していたのはおそらく同時代の日本における思想界の状況であったと僕は推測します。その時代認識が正確であったかどうかは別に,スピノザの哲学で形相的有esse formaleが客観的有esse objectivumに対して先行することはないという点は,スピノザの哲学への正確な理解であるといえます。スピノザの哲学では,事物があってそれが認識される,すなわち知性intellectusの外にAがあって,それが知性によって認識されることによってAの観念ideaが存在するようになるというわけではありません。
 このことはスピノザが思惟の属性Cogitationis attributumの直接無限様態として無限知性intellectus infinitus,infinitus intellectusを示していることと関係します。たとえば第二部定理一七の様式で人間の精神mens humanaがある事物を表象するimaginari場合,まずこの表象imaginatioと関係する外部の物体corpusが存在して,その外部の物体がある人間の身体corpusと関係することによってその人間の知性のうちに表象像imagoが発生するということは可能であって,この場合には表象像という観念に対して表象される外部の物体の存在が先行しているといえなくありません。そして表象像は混乱した観念idea inadaequataですが,第二部定理三二により神と関係する限りでは真quatenus ad Deum referuntur, verae,すなわち十全adaequatumなので,形相的有が客観的有に対して確かに先行しているといえなくないでしょう。ですがこれは人間の知性という有限な知性と関連させ,その有限な知性のうちに何らかの観念があるということを前提しているからそうなっているだけです。別にこの人間がその外部の物体を表象せずとも,無限知性のうちにはその物体の真にして十全な観念idea adaequataがあるわけで,この意味においては形相的有が客観的有に先んじているわけではありません。むしろ双方の関係は,もしAという形相的有が存在するならばAの客観的有が無限知性のうちに必然的に存在するのであり,逆にAの客観的有が無限知性のうちにあるなら,Aは形相的有としても無限知性の外に必然的に存在しているという照応関係があるだけです。これは平行論の基本原理であるといえるでしょう。
 ですから,形相的有が客観的有に対して先行しないということを原理的に示しているのは第二部定理七であり,また第二部定理七系であることになります。同時にこれらは逆も意味しなければなりません。
コメント
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