スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

王位戦&絶対に無限な実在

2007-08-01 22:29:40 | 将棋
 王位戦七番勝負第三局。1日目の終了時点で,桂損なのだから羽生善治王位は攻め続けるほかないだろうと書きましたが,正直なところ,封じ手の局面でどちらかを持って指しなさいといわれたら,僕は迷わずに後手を選んだでしょう。攻め続けられるとは思えませんでした。
 封じ手(61手目)は角交換を挑む▲4六角。深浦康市八段は拒否して△2九馬。ここから▲8二角成△3八馬と飛車交換して先手を握る順ももちろんあったと思いますが先手は▲6八飛と自重。これには後手も飛車を逃げる一手で△9二飛。ここから双方の飛車がさほど働かない展開となりました。
 この将棋のハイライトはこの後の先手の角の使い方にあったと思います。65手目に一旦は▲5七角と引き,67手目に▲6六角とこちらに出て王手。さらに85手目に▲8四角と出て,91手目に▲5一角成。この間,うまく端攻めも絡めて95手目には▲1五馬とここで銀を取りました。おそらくこの局面では先手の勝ち筋に入っているものと思われます。
 後手はここから反撃に転じましたが108手目の△7二飛で小休止。手番が先手に移り,117手目の▲3四歩が詰めろ。後手もここから少し王手を掛けましたが,先手玉は詰まないので投了。羽生王位がひとつ返して1勝2敗としました。
 全般的には先手の角のダイナミックな働きが光った将棋で,それに比べると後手の馬の働きはいま一歩であったという感じで,飛車の働きに乏しい将棋でしたので,その差が勝敗に直結したのではないかと思います。後手としては,82手目に△2一桂とここに打つようでは桂得が生きたとはいい難いと思えますので,これ以前の指し方にもう一工夫が必要であったのではないかと思います。
 第四局は8日と9日に福岡で。深浦八段は長崎出身ですので,いわば準地元での対局ということになります。

 それでは,絶対に無限であるといわれるものは,自然のうちにはどのようなものとして実在するかを考えてみます。まず,第一部定義六において,神は絶対に無限であると定義されているわけですから,神が絶対に無限なものとして自然のうちに実在するということは理解できます。なお,僕はこの定義はこの定義そのものから神の実在が必然的に生じてくるという意味での実在的定義であると考えていますが,仮にこれが神についての名目的定義であると考えるとしても,第一部定理一一においては,神の実在が証明されていますから,『エチカ』において考える場合にはこれはまったく問題にならないと思います。少なくともこの定理の第三の証明についてはそれを覆すことはできないと僕には思えるからです。
 しかし同時にこのことから,絶対に無限であるものは神だけであるということが直接的に出てくるのです。なぜなら,スピノザの哲学において,たとえばAはXであるというのがAの定義であるとしたら,AとXは一対一で対応し合わなければなりません。つまり,スピノザの哲学における定義命題では,AはXであるならば,XであるものはAでなければ,それはBでもCでもなくAでなければ,つまりは,XであるものはAだけでなければならないのです。したがって,定義六において,神とは絶対に無限であると定義されている以上は,逆に,絶対に無限であるものは神だけでなければならないということが,これ自体のうちにすでに含意されていると考えるべきだと思います。よって,自然のうちに実在する絶対に無限であるものは,神だけであるということが,この定義六から明らかであるということになります。
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