スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

罪と罰考&実在的視点

2007-08-29 20:52:57 | 歌・小説
 『罪と罰』はそのストーリーの内容と別に,僕にはひとつ思うところがあります。それはこの小説のタイトルが『罪と罰』であるということ,正確にいうならば,この小説のタイトルが『罪と罰』と日本語に訳されていることです。
 単純にいえば,主人公であるラスコーリニコフが殺人を犯し,シベリアへの流刑に処されるわけです。これがこの小説における罪であり罰であるということができます。しかしドストエフスキーは明らかにこの小説をそのようには描いていないように思えます。殺人という行為とそれに対する流刑という処置は,いわば犯罪とそれに対する刑罰であって,ラスコーリニコフにとっての本当の罪,あるいは本当の罰というのは,それとは違うところにあるというような描かれ方をしているように思えるのです。
 ドストエフスキーの小説というのが心理小説であり,僕はその部分に面白さを感じるということは『賭博者』のときにもいいましたが,実は罪とか罰というのも,ラスコーリニコフにとってラスコーリニコフ自身の内面的な問題であり,そしてこうしたことは,小説の登場人物であるラスコーリニコフに特有の事柄ではなく,広く人間一般に妥当するのではないかと,この小説を読んで僕は感じるのです。
 イタリアの刑法学者であるベッカーリアに『犯罪と刑罰』という著書があり,ドストエフスキーはそれを知っていて,この本のロシア語の複数形を単数形に変えて『罪と罰』を書いたそうです。『犯罪と刑罰』ならぬ『罪と罰』。その題名からして見事な作品であると思わずにはいられません。

 王位戦七番勝負第五局は相矢倉。先手の羽生善治王位の森下システム志向に,後手の深浦康市八段は玉を4一のまま攻め,銀桂交換の駒得を果たしました。ただ玉形は弱いですからそう簡単にはいかないでしょう。封じ手が難しそうなのであえて▲4六歩を予想しておきます。

 ある事物が無限であるということが,少なくともその事物が属する属性においては,最高の実在性を有するということを含意するということは問題ないだろうと思います。そこでそれが無限である事物の絶対的肯定であるといえるかどうかということに関しては,次のような実在的視点を導入しなければ,それを正当化することはできないのではないかと思っています。
 ある属性における有限である事物と無限である事物を比較した場合には,無限である事物が有限である事物に対して,より大きな実在性を有します。これは無限である事物が,その属性における最高の実在性を有するということから明らかでしょう。そこでこのとき,第一部定理一一第三の証明で神の実在を証明したときの,神と神以外の事物との関係が,無限である事物と有限である事物との関係にも適用し得ることになります。これは単に事物が実在することをその事物の力とみなすことのみを前提としていますから,ここで適用してもいいと思います。
 したがってこれによれば,ある属性においては,無限なものが存在するか,そうでなければ何も存在しないかのどちらかになります。ところが,一般に事物が有限であるということはその事物の部分的否定,裏を返せば部分的肯定ですので,有限な事物は存在するでしょう。よって無限な事物は必然的に実在することになります。それが必然的に実在するのであれば,それはその事物の存在の絶対的肯定であるといって構わないでしょう。よってこの視点からは,確かに無限であるということが,その存在の絶対的肯定であるといい得るように思います。
コメント
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