漂着の浜辺から

囁きのような呟き。

この世界の片隅に

2016年12月18日 | 映画
「この世界の片隅に」 片渕須直監督 こうの史代原作

を観る。

 非常に評判の良い映画のようなので、観てきた。
 凄かった。
 ちょっと、他になんと言って良いのか。
 良かったとか、感動したとか、なぜだか言いたくない。もちろん、面白かったというのは、さらに違う。観終わったあと、まるですっきりしない。ただ深い気持ちになって、映画館の照明が灯るまで、座っていた。ぼくだけではなく、誰も席を立とうとはしない。誰も喋らない。照明が点って、やっと観客は立ち上がって、出口に向かったが、口数少なだった。
 妻は、「『ピアノレッスン』や『パフューム』を観た時のような、もの凄いものを観た感じに近い」と言っていたが、まさにそれ。安易な方向に逃げず、隅々にまで何度も手を加え、できる限りの事はやったという真摯な姿勢が感じが伝わってくる。作品を作り上げるということは、こういうことだと思った。メディアであまり取り上げられなくなるであろうというリスクを犯してまで能年玲奈(本名)を起用したのは、彼女でなければだめだと監督が確信していたからだろうし、実際見事に合っていた。本当に作りたいという気持ちだけを武器に、妥協できないところは妥協せず、クラウドファンディングを利用して、公開にまでこぎつけたのだ。市場調査をし、こうやったら受けるだろうという姿勢で、スポンサーの顔色を見ながら作り上げられた映画とは、背骨の入り方が違う。
 物語はユーモアを交えながら淡々と進むが、非常に重く、文学的である。アニメでありながら、ファンタジーへの飛躍はほとんどなく、まるで小津安二郎の映画のようだと思える場面さえある。波乱万丈のストーリーではなく、ディテールの積み重ねで説得力をもたせてゆくのだが、そのディテールのひとつひとつに確かな手触りがあり、まるで自分の記憶のように印象に残った。ぼくは、すずと水原がふたりきりで土蔵の中で過ごしたときのむせかえるような緊迫感をそっと覗き込んでいたような気がしたし、被爆し、ひとり実家へと帰ってきたが、誰にも気づかれぬまま死んでいった少年を目にした気がした。そして、何度ももうんざりしながら防空壕に逃げ込む事を繰り返していた気がした。空襲のシーンは、これまでに観てきたどの映画よりも怖かった。たったひとりのヒーローも登場せず、戦時が日常になってゆく時代の流れに押し流されてゆく人々ばかりが現れては消える。普通の日常が、徐々に歪んでゆき、気がついたときには根こそぎ奪われている。悲しみさえ、麻痺してゆく。きっとこういうことが、あの当時、日本中で起きていたのだと思った。原爆のシーンなど、もっとエグくて生々しい表現をしようと思えばできたシーンはたくさんあるのだろうが、あえてあっさりとした表現にしたのは、あるいは原爆の目を覆いたくなるような悲惨さというその鮮烈さに目を奪われて、この物語が本当に語りたかったことが伝わらなくなることを避けようとしたのかもしれない。
 非常に文学的な映画だが、一方で、アニメだったから良かった、というのもある。これは、実写でやると、多分、逆に嘘くさくなる。想像力の入り込む余地を大きく残したアニメだからこそ、そしてあの絵だからこそ成し得た、本質的な表現。これをどう消化するのかと、そっくりこちらに投げられた感じがする。人が起こした戦争が、大切なものをたくさん奪い去ってしまった。一億総玉砕の掛け声のもとに戦ってきたが、戦争を始めた人たちは、死よりも降伏を選んだ。最初から、自分たちは死ぬつもりなんてなかったのだ。そうして敗戦を迎えた後も日常は続いてゆく。あの戦争は、いったい何の、誰のためだったのか。死んでいった人は、失ったものは、いったい何のため、誰のために消えてしまったのか。どんな言葉でも、癒やされはしない。どんな理由をつけられても、納得できない。この悲しみは、いったいどこに埋めてやれば良いのか。
 「良かった良かったというけど、ちっとも良くない」と叫ぶすずの声が、耳の奥で鳴っている。

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