漂着の浜辺から

囁きのような呟き。

メアリ・シェリー「マチルダ」

2018年04月22日 | 読書録
 
「マチルダ」 メアリー・シェリー著 市川純訳 彩流社刊

を読む。

 メアリー・シェリーといえば「フランケンシュタイン」と反射的に出てくるほど、彼女の名前はその怪奇小説史上最も有名な怪物を描いた小説と結びついています。それは、作中のフランケンシュタイン博士とその創造物である怪物の名前が同一視されがちなことと、どこか似ているようにも思えます。
 しかし、そもそもほとんどの人は、メアリー・シェリーが「フランケンシュタイン」以外の小説を書いたということさえ知らないのかもしれません。
 余りにも有名で、怪奇幻想にとどまらず世界文学史上に燦然と輝く「フランケンシュタイン」の陰に隠れて、ほとんど知られてはいないものの、それなりに有名な彼女の作品というものもあります。奇跡的に邦訳のある「最後のひとり」(森道子ほか訳/英宝社刊)はそうした作品のひとつで、これは疫病によって人類が死滅する未来を描いた破滅SF小説です(と偉そうに書きましたが、ぼくは、持ってはいるのですが、まだ読んでません……)。しかし、ブライアン・オールディスが書いた有名なSF通史「十億年の宴」の中で世界最初のSFとして挙げた「フランケンシュタイン」に対して、こちらは古典SFの文脈でたまに言及されるくらいです。他にも、邦訳のあるものとしては、角川ホラー文庫から出た「フランケンシュタインの子供」というアンソロジーの中に短編が二つほど訳出されていますが、これはそれぞれ「フランケンシュタイン」と「最後のひとり」のバリエーションに近いといった印象です。他にも雑誌に訳出された短編もあるようです。
 さて、この「マチルダ」は、メアリーが「フランケンシュタイン」を書いた翌年に脱稿した中編小説なのですが、生前は一度も陽の目を見ず、出版されたのはようやく1959年になってからという作品です。また、同時収録されている短編「モーリス」は、さらに時代が下って、1997年になって初めて発見された、メアリーが友人の娘のために執筆したという児童文学です。つまり、長らく多くの人の目に触れなかったいわくつきの二作品がセットになって収録された一冊というわけです。
 「モーリス」はともかく、「マチルダ」の方は、メアリー・シェリーを研究する上で、注目に値する作品といって良さそうです。というのもこの作品、父娘の(プラトニックな)近親相姦を扱いつつも、実は「愛の渇き」をはっきりとテーマとしているからです。ちなみに、メアリーの父というのが、最近白水Uブックスから再刊された小説「ケイレブ・ウィリアムズ」で有名な、思想家であり作家でもあるウィリアム・ゴドウィン。この作品は、脱稿したあとで父に見せたところ、二度と返してもらえなかったらしいです。そうして、結局出版はされなかった。内容もスキャンダラスだったし(しかし、この内容を自分の父に見せるかね)、ゴドウィンとしては、文学的にも満足のゆく出来栄えではないと判断したせいらしいです。実際、一読して、非常に興味深い作品だとは思いましたが、「フランケンシュタイン」に比べてしまうと、確実にかなり落ちる作品ではありました。全体にゴシックロマンの雰囲気の漂う小説です。

 内容を簡単に要約すると、以下のようなもの。ネタバレで面白くなくなるといった作品でもないので、当たり前のように核心にも触れます。

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 物語は、冒頭で、まもなく死を迎えようとしている若き女性マチルダの手記という形をとっている。
 マチルダの父は、病弱な母と暮らしている、イングランドの裕福な貴族の息子だったが、母の死後、家を受け継いだあと、近所に住む裕福な家の娘ダイアナの恋愛結婚をした。ふたりは非常に仲睦まじく暮らしていたが、マチルダを産んだ母ダイアナは産後の肥立ちが悪く、まもなく亡くなってしまった。悲しみに暮れた父は、娘であるマチルダを伯母に預け、悲しみの家を出て行ってしまう。マチルダは伯母とともに、両親の顔を見ないままで成長してゆく。
 マチルダが16歳になった時、突然父から帰宅するとの知らせが届く。長い間、一度も会ったことのない父と会えることを夢見ていたマチルダは、その日を心待ちにして過ごす。そして実際に再会した彼女は、嬉しさの余り父親にべったりと懐くようになる。父も、彼女との再会を喜ぶ。ところが、ある時マチルダにどうやらちょっとした恋心を抱いたらしい男性が家を訪れる。その時から、状況は一変する。父が急にマチルダに冷たい態度を取るようになったのだ。理由が分からず、悲しみにくれたマチルダはどうしてよいのかもわからず、父にその冷たい態度を取る理由を何度も尋ねる。父は決して答えてはくれないが、やがて根負けして、ついに告白する。自分は娘であるはずのマチルダを男として愛してしまったのだということに気がついた、許されないことだから苦しんでいるのだ、と。おそらく父は、マチルダにかつての妻の面影を幻視していたようだった。当然マチルダはショックを受ける。もちろん受け入れることはできないし、父にもそんなつもりはない。互いの苦しみの果てに、やがて父は置き手紙を残し、マチルダを置いて、ふたたび一人で家を出てゆく。それを読んだマチルダは、父が死ぬつもりであることに気づき、追いかけるが、嵐の海にひとり出てゆき溺死した父と再会することになる。
 父の死にショックを受けたマチルダは、逃げるように家を引き払い、田舎に隠遁する生活を送るようになる。絶望の中で苦しみながら過ごすうちに、マチルダはウッドヴィルという一人の青年と出逢う。牧師の息子で詩人の彼は、婚約者を亡くしたばかりで、人生に絶望していた。人生に希望を見いだせない同士の二人は、互いに傷を舐め合うように交流をするようになる。しかし、恋人どうしになることはない。しかし、やがて、自死への誘惑に傾いてゆくマチルダに対して、グッドヴィルは強く生きてゆくことを選び、マチルダを励まそうとするが、マチルダはその彼の言葉に感謝と愛情を感じ、希望の光をみながらも、急速に体調を崩してゆく。そして冒頭に戻り、死を迎える。

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 読みながら強く感じるのは、マチルダの埋めようのない心の孤独です。生まれてからずっと、彼女は親の無条件の愛を知らずに育ちます。彼女の育ての親である伯母も、マチルダには全く愛情を注ごうとはしません。唯一、乳母だけが彼女に強い愛情を注いでくれるのですが、その乳母も、マチルダが7歳の時に暇を出されて屋敷を去ってゆきます。そうして、夢にまで見た父との出会いと悲劇的な結末。「愛の渇き」というのは、アンナ・カヴァンの小説のタイトルにもありましたが、それが常にマチルダを苛み続けるのです。無条件の愛を知らない人は、自分を完全に肯定できずに育ちます。それゆえ、彼女に対して愛情を注いでくれようとしたグッドヴィルの思いにも素直に応えることが出来ずに、死にたくはないという気持ちを抱えつつ、死んでいってしまうのです。
 
 数ある怪奇幻想文学の中で、もしジャンル内でのオールタイムベストを決めるという投票があるとしたら、ぼくは躊躇いなくメアリ・シェリーの「フランケンシュタイン」に一票を投じると思いますが、この「マチルダ」には、そうした完成度の高さは望めません。しかし、彼女が「フランケンシュタイン」という作品を生み出した背景に思いを馳せるとき、この作品が何かしらの灯火のような意味を持つ可能性はあるように思えます。メアリー・シェリーの生い立ちを眺めるとき、この作品と重なって見える部分が少なくはありません。あまり深読みはよくないのかもしれませんが、たとえばメアリーの母のメアリ・ウルストンクラフトは(メアリ・シェリーと同名です)「女性の権利の擁護」(1792年)を著した女権拡張論者で、メアリーを産んだ数日後に亡くなっています。また、メアリーが16歳の時に、父のもとに出入りしていた青年パーシー・ビッシュ・シェリーと恋に落ち、パーシーはその当時、別居状態ではあったものの妻帯者であり、また父ウィリアムにも反対されたことから、駆け落ちします。そうして、父娘の間には決定的な決裂がなされます。こうしたことは全て、メアリーが「フランケンシュタイン」を書くまでに起こった出来事でした。
 というわけで、そういった意味でも、非常に興味深い作品です。メアリーが「マチルダ」を書いた理由は、いったい何だったのか。メアリー・シェリーとウィリアム・ゴドウィンにとって「マチルダ」という作品はいったいどういう意味を持っていたのか。そういったことにも思いを馳せることができます。小説としては決して傑作ではないけれど、メアリ・シェリーという人物と傑作「フランケンシュタイン」を語る上で無視していい作品ではない。そういう作品だと思います。

 併録されている短編「モーリス」は、メアリが友人の娘のために書いた児童文学ということですが、内容的には、貧しい家を出て、海辺に暮らすやはり貧しいが思いやりのある漁師の家で暮らすようになった素直で優しい少年の物語です。父のように慕っていた漁師が急に亡くなって悲しみに暮れていたとき、その漁師の兄だという男がやってきて、この家は自分のものだから一週間以内に出てゆくように告げられて、途方に暮れていた少年のもとに、ひとりの旅人がやってきます。そして、その少年を自分のところに引き取ろうとしますが、話しているうちに、その子こそが実はかつて攫われてしまったその男の実の息子であることが明らかになります。実は赤ん坊の頃に攫われた裕福な家の生まれであったという、典型的な少女漫画的なハッピーエンドの物語です。読んでいて楽しいメルヘン的な小説で、悪い作品ではありませんが、この物語に関しては特にここで語ることもなさそうです。


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