漂着の浜辺から

囁きのような呟き。

泉鏡花 「海異記」

2005年12月25日 | W.H.ホジスンと異界としての海
 創元文庫から「満を持して」刊行された、「日本怪奇小説傑作集」全三巻。その第一巻をようやく買った。編者は紀田順一郎と東雅夫。真打ちの感がある。
 第一巻には、明治35年から昭和10年まで、西暦で言えば1902年から1935年までに発表された作品が集められてある。編年体のアンソロジーなのだ。ちなみに、作家で言えば、小泉八雲から佐藤春夫までである。まだ全てを読んでないので、なんともいえないのだが、昔から名作といわれている作品群の中から、とりわけ異界と此界が互いに侵食しあっているような作品が、多く選ばれているようだ。その点で、西洋の怪奇小説よりもずっと夢幻の色合いが強い。
 
 ここで取り上げるのは、このアンソロジーで小泉八雲に続いて、二番手として紹介されている作品、泉鏡花の「海異記」である。発表は1906年。「ホジスンと異界としての海」のカテゴリーで紹介しているから、その関連で言えば、1906年はホジスンが長編「The Boats of the “Glen Carrig”」を発表する前年である。特に何の関連もないが、同時代の作家であったということは確認しておきたい。
 さて、この作品を読んだのは初めてだったのだが、大体において、鏡花の文章は読みにくい。だから、完全に意味が取れたのか、正直、自信がない。それほど難しい文章なのだ。それでも、大筋くらいはわかっているはずである。
 簡単に言えば、漁師の若い妻が、夫が長い航海に出ている間、幼い娘を抱えてたったひとりで心細く生活していたのだが、あるとき海から入道がやってきて、娘の命を奪っていった、というような話だ。
 だが、その結末の部分で、少し引っかかる部分がある。
 果たして、お浜という娘は、本当に入道の手にかかって、命を奪われてしまったのかとうことだ。一見、例えばゲーテの「魔王」の詩のように、魔物によって幼い生命を断たれた悲劇のようだが、どうもそうではないようにも読めるのだ。
 これは、もしかしたら深読みの部類にもはいるのかもしれないが、もしかしたら、お浜の命を奪ったのは、孤独のあまり錯乱した母親、つまり漁師の妻のお浪なのではないだろうか。入道というのは、ただの通りすがりの破戒僧のようなもので、彼が行ったことといえば、幼子の殺害ではなく、お浪との姦通に過ぎなかったのではないか。そう考えれば、作中でちらりちらりと、考えようによっては不必要なほどに、お浪の艶かしさが書かれている理由も理解できる。
 この小説の、本当の怖さは、そうした二重の構造なのではないかという気がする。

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