漂着の浜辺から

囁きのような呟き。

漂着文庫コレクション/ 11・果しなき流れの果に

2010年01月09日 | 漂着文庫コレクション

「果しなき流れの果に」 小松左京著
ハルキ文庫 角川春樹事務所刊

再読。

 四十五年も前の作品。なのに、いまだにSFのオールタイムベストの上位に入ってくる怪物的作品。光瀬龍の「百億の昼と千億の夜」とよくトップを争ったりしている。それは、この作品がそれだけの名作であるというのも確かにあるのだろうが、新しいコアなSFファンが増えてきていないということを意味しているのかもしれないという気も、しないではない。久々に読んでみて、やはり今でも面白く読める作品だとも確かに思ったが、同時に、さすがにやや古く感じる部分もあるなあとも感じた。僕はSFが大きな可能性を持つ文学形式だと常々思っていて、その思いは全く変わらないのだが、同時に、その中でも特に好きなハードSFは、他の文学形式では扱えない領域にまで踏み込める代わりに、早く古くなることが避けられないという宿命を持っているのも確かだと思っている。この作品についても同じことで、内容の一部は今ではもう充分に有効とはいいがたいだろうし(なにせ四十五年も前に書かれたのだ!)、この作品に影響を受けた作家たちによって、様々な形で消化もされている(エヴァンゲリオンをはじめとする、いわゆる「セカイ系」と呼ばれる作品も、正直言ってあまりよくは知らないけれども、個人的な恋愛が世界をゆるがすほどのスケールと直結しているという点において、その変則的な子孫なのではないかという気もする)。今でも日本のSFのベストがこれであるというのは、多分正しくないのだろうが、それだけ色あせない作品であるということでもあるのだろう。僕が初めてこの本を読んだのは、今からもう二十五、六年も前のことだが、あの時点ではまだこれだけの厚みのある作品は日本には少なかったし、くらくらするほど衝撃的だった。僕が初めて読んだ本格的なハードSFは、まさにこの作品だった。
 今読むと、この作品がクラーク、アシモフ、ハインラインの御三家を初めとする、海外の名作SFの影響を強く受けていることが分かる。宇宙意識なんてのは「幼年期の終り」だし。軌道エレベーターらしきものが出てきたのには、すっかり忘れていたので、驚いたけれども。「楽園の泉」よりも早い。
 ただし、この作品がいまだに強い支持を受けている本当の理由は、こうしたストーリーやアイデアそのものにあるのではなく、この構成力にあるのだと思う。野々村と佐世子の、生涯のラブストーリーという普通の人間の時間の流れがあって、その僅か数十年の時間の中に、野々村の、果てしない時間の中を駆け巡る物語が同時に存在している。若いうちに別れ別れになってしまった二人は、ほとんど共にすごすことなく、年老いた、人生の終りになってようやく、変則的な形ではあるが、再開を果たす。佐世子は田舎の教師となって、生涯を独身で通し、沢山の教え子を送り出す。一方野々村は、白亜紀から紀元四十五世紀までの時間と、この宇宙を越えた、幾つもの宇宙の見渡せる遥かな空間を駆け巡り、あろうことか、意識だけの存在となって、自分の父親の肉体に吸収されて、現代に帰ってくる。時空を駆け巡る物語のとても静かな結末が、小説の最初に書かれていて、それが物語の一番最後になって閉じられるとき、静謐な、言いがたい感動を生む。ここにこそこの小説の肝がある。この「果てしなく長い旅」の感覚が、強く琴線に触れてくるのだ。ここでふと思い出すのは、日本で常に人気があるハインラインの「夏への扉」。この作品でも、この「長い時間の果て」の感覚が、猫のピートに投影されている。こういう感覚は、日本人にはたまらないのだろう。
 日本でSFを語る上では、絶対に欠かすことのできない小説であるのは間違いない。