つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

2013-06-21 | Weblog
懸命に努力して、事業に成功、この経済社会において、
一応勝ち組として生きられていたとしても、
それこそ、自分の努力で成り立った地位と名に、金の自由が普通に追いかけてきて、
偏に偉いものだと周りから敬われ崇められても、
それが、魂の育成に何ら貢献するというものではない。
努力の賜物によるものであっても否である。
金の扱い方で、
苦楽の別となるのであり、お金の有無には関わらない。

金と灰皿はたまるほど汚くなるというように、たまるというのは
凡そいかなることにもよろしくはない。それは、道理が
片時もとどまることなく動いているものであるから。
流動的であるためで、
たまるのは腐るのである。
「敢えて」ということを知っていて、的確な時期という流動性を為すのであれば、
とどまるというにはあたらない。が、
的確な時期を過ってしまうのがほとんどで、役に立つどころか害してしまう。

‘腐る’と‘発酵’は同じ過程をなしていて、害と益になるのは‘人’を介して分かれるだけで、
人の質によることになる。
‘扱い方が誤れば’である。


道理を見るというのは、その質、流動であるという理解、そして、円の流れ、円運動であるという理解。

すれば、時間が空間が同じところを通る、同じところに戻りながらということを知る。
この道はいつか来た道、いつか見た景色として、自分に返る、自分が帰ることを予められる。
悪い意味で「報い」となるのか、善い意味で「報われる」となるのか、いずれにしても「報いる」のは
どちらにか偏る。
だから、
悪いことはできないものである。善いことはするものである。

好ましいことになるかならないかは、
円を、だから、縁となるものであるからと、
誰に教えられなくとも道理に教えられる。

宿命であるために、その命の道変えられずも、その命、その道をどう運ぶかは自分次第、変えられるということである。
くるくる回る独楽に、一滴色を垂らせば、見る間にその色に染まるように、
独りでに楽をつくるのは自分という孤独にある。誰によるものでもないが、道理を弁えて、
よく徳を積んでいけば、徳は孤ならずと言い、よく周りに助けられ、また、師と崇められもする。
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