つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

ほどほどというもの

2015-11-01 | Weblog
どんなに美味しいものでも満腹であれば食べたいとは思わない。
美味しいものは美味しいものなのだが、
美味しくはあれど、美味しいとは思わなくなるのが、満腹という度合いである。
断食をして、さて、
食事にありつけたとき、普段粗末と思っているものでも、とてもおいしく感じられる。
貪りつく有り様は何を思わせるのか考えてみるとよい。粗末の在り方もまた「完」にしてある。
確かに、空腹感は精神を研ぎ澄まし、普段思いつかないことを思わせてくれる。
足るを知ることはとても大事である。
満たされたものからは、何も得られるものは無いと覚ることは光明である。
しかしながら、あまりにも空腹であるのは、覚るまでにも届かず、ただ朽ちてしまうのみある。
死に損という損得の煩悩にあり、飢餓に瀕し餓鬼道に落ちる。
仏が諭すに、
難行苦行は何の効果も無く、極めるは中道にして得られるものであると訓えられる。
そこそこにして、智慧を得て知るものである。
先人というのは、経験の中にありものを言いあてはめるもので、的を得ている。
それをどう受け止めるかは、それぞれの人の自由な思いである。
智恵の無いものに、ひたすら苛酷にして益とするが、ただ苦しいに徹してそれまでである。
それは、その道を歩むことが到達であり、道程にある事をはき違える。
道は終着点ではない。行き着くところへ誘う道のりである。

食欲というのは計算されて出されるものではない。
計算できないものに計算されたものは、当てはめられないものである。
だから、
食べ物の熱量を計算して食べても、食欲の自由が奪われていき、
生命力が失われていってしまう。
カロリー計算ばかり気にして、あれはいけない、これはいけないと、
食べたくとも我慢して、健康を気にしている人ほど病にかかりやすくなっていくのである。
食べたいものも食べられずに毎日を過ごしていれば
自然と体力は失われていき、免疫力も衰えていく。
病気にかかりやすい体になって行くのである。

食べたいと思うものは美味しく感じられ、
上手く体に取り込まれていくために、節度をわきまえてさえいれば、
健康でいられるのである。
食べたいときに食べたいものを食べるのが本能である。
足るを知りながら、そのつり合いを保ってさえいれば、病気に対応した体となって行く。
本能の自由な行為は、生命の浄化の行為となっている。
内臓は、生命の自由によって動かされている。
そのために、人の意志で動いてはいない。
生命の動きが円運動の動きとなっているために、
片時も止まることなく動いているもので、すべて、エネルギーの法則の自由によって動いているものである。
この動きが浄化の動きである為に、食物の選択も本能行為となって浄化の行為となっている。
甘いものを欲しがるのも、塩辛いものを欲しがるのも、その時々の体の求める反応、浄化行為である。
肉体のエネルギー不足が、その時に必要なエネルギーを欲しがるもので、
欲しがるものを与えれば美味しいと感じるのである。肉体的に満たされれば、体は
補給されるまで眠たくなっていく。眠ることによってエネルギーが充足されるのである。
そうして再び活動できる体となっていく。
すべて円運動の動きであり、循環して浄化となっている。
この自由が侵されていけば、どんなに健康になろうとしても思いもよらない結果となって行く。

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