唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 随煩悩 諸門分別 (23) 第六 別境相応門 (7)

2016-02-12 21:43:50 | 第三能変 随煩悩の心所
 

 昨日のつづきになります。『二巻抄』の記述から伺っていますが、見道位(通達位)において、はじめて「真如の理を悟り」、「よく分別のニ障を断ず」。是を見道と名づく、といわれていました。前者を理証・後者を断惑といい、この断惑・理証が見道における具体的な心のはたらきであると、いわれています。五十一位の段階で十信・十住・十行・十回向と修行の階位が述べられているのですが、これまでは、世第一法の位にいくまでの、資糧位・加行位としての凡夫としての智慧が磨かれる段階とされています。
 
 次に定が遍行でないという説明がされます。

 「若し心を繋して境に専注せざる位には、便ち定いい起こること無し。故に遍行に非ず」(『論』第五・三十左)
(意訳) 心が散乱している状態には、定は起こらない。「心を繋して」(認識対象につながず)、認識対象に専注していない状態である時には、定が起こることは無い。よって定は遍行ではない。
 
 安田理深述『唯識三十頌聴記』より引用(選集p308~315)
 「定というのは何か。「令心専注不散」とする。これが定の心理である。・・・定は心に起こる。この場合に六識である。第六識に定が起こると第六意識が専注不散になる。・・・定になろうという意欲が定にならしめるのではない。我をとって考えねばならぬ。意識に我があるなら、なろうと思えばなれる。なろうとおもってなれぬのは、無我の証拠である。どうしてなれるかといえば、心所法という法がある。ならしむるものを法という。心をして特定の心ならしめる法として心所法が見いだされた。定という作用の本質をあらわす。性とは本質である。そういうことによって間接には、次の慧の根拠になる。これが他に対する用き(業)である。・・・
 見道というものに十六心ということがある。見道の過程を十六と立てる。そういうところから見ると、一境ではない。見道において四聖諦の真理を観ずる。次第に境が展開して行く。その展開す境に従って専注する。ただ心一境性というだけなら、見道というものには定が無いことになり、散になったことになる。定の境が一つだということになる。前後の境、展開に従って、その境に従って専注する。茶を飲む時には茶だけ飲めばよい。それが定である。・・・定ということは、ものそのものとなることである。耳をもって声を聞くというより、全身が耳になる。眼で見るというよりも全身が眼となる。」と、定について教えておられます。 
 
 以下は他学派の説を挙げ、論破します。ここでは割愛します。