昨日の『述記』の所論の中で、「不共無明の分位の忘念と不正知とは此の心に遍せず。即ち癡の分なるが故に。この義思うべし。不共無明は定んで倶なることを得と言わず。但だ(忘念と不正知とは)十と倶なりと言う。即ち此の無明の時は、或は慧の分有るが故に。然るに癡の分は定んで一切の染の心聚に遍ぜるが故に。不共無明の一法は、定んで悪慧と倶なりと言うに非ず。此の無明の聚の中には、余の法も此れと倶なるが故に。即ち無明に於いて仮に建立せるが故に。」と述べられていました。
大随煩悩は染心に遍く存在するために、十の煩悩と相応するのですが、忘念は念と癡、不正知は癡と慧の一分である分位仮立法なのです。ここで問題が起こります。自類の心所が並起することはないわけですから、ここをどのように解釈すればよいのかということになりますね。
つまり、忘念は念と癡の一分によって立てられた心所であり、不正知は癡と慧の一分によって立てられた心所です。その為に、別境の念と忘念が相応することになれば、念と念が複数並起することになります。同様に不正知も別境の慧と相応すれば慧と慧が複数並起することになり、通常あり得ない現象が起こることになります。
護法は「染の念と染の慧とは念と慧と倶なるに非ずと雖も、而も癡が分とは亦相応することを得るが故に。」と釈します。これを色互相応(いろえそうおう)と云い、つまり、癡の一分を持つ心所とは相応することになり、複数が並起することにはならないと云うのです。
第二は、慳と貪・瞋・癡・慢の相応について説明されます。
「慳は癡と慢とは倶なり。貪と瞋とは並ぶに非ず。是れ貪の分なるが故に。」(『論』第六・三十四右)
(慳は癡と慢とは相応するのである。しかし慳は貪と瞋と相応しない。何故なら、慳は貪の一分である分位仮立法だからである。)
慳は癡と慢とは相応するけれども、貪と相応するものではない。それは慳は貪を自体とする心所だからなんですね。また瞋とも相応しないのは貪を自体とする慳は瞋とは相違するからである。貪と瞋の相応不相応の問題になります。当然貪と瞋は相応しません。