唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 随煩悩 諸門分別 (26) 第六 別境相応門 (10) 忿と念の相応について 

2016-02-15 21:18:57 | 第三能変 随煩悩の心所
  

 先ず問いが出されます。「問う、忿は現在を縁じ、念は曾習を縁ず。云何んぞ、此の二倶生することを得と説く。」(『述記』第六末・九十五左)
 忿と別境の念が相応し得ることを説明する。
 「念は亦現に、曾習(ぞうじゅう)せし類の境を縁ず、忿は亦刹那過去をも縁ずることを得るが故に、忿は念と亦相応することを得。」(『論』第六・三十三左)
 (忿と別境の念が相応しえることについて、念は過去に経験した事(曾習)のある認識対象を縁じるのであるが、忿もまた刹那の過去の認識対象をも縁ずることがある。従って、忿は念とまた相応することが出来るのである。)
 問いは、忿は現在の認識対象を認識する心所であり、念は過去に経験したことを認識対象として認識する心所である。現在と過去という時間的に相違するものが、どうして倶生することが出来るのか、という問いただしですね。この問いに答えているのが本科段になります。
 『述記』の説明から伺いますと、
 『述して曰く、念は曾習と現在の境を縁ず、是れ過去に曾習すること有るの類なり。故に念亦現在を縁じて起こる故に、忿と倶なることを得。」と、類境によって説明しています。体境・類境については、念の心所で復習をしました。
 念の境が体境と類境の二つに大別され、この体境と類境に二通りの考え方がある。
 第一義 直接的に、その体を縁じるものを体境、間接的に名等と縁じるものを類境とするもの。
 第二義 過ぎ去った体を縁じるのを体境、後に、重ねて、また縁じるのを類境とするもの
 本科段は、第二義の中の類境によって論じられています。

 また、『述記』は、本科段は二つに分けて考えることが出来ると指摘しています。
 「此は念を以て忿の行に従へるなり。下は忿を以て念の行に従うなり。」と。前半は、忿の行相に念を従えて説明し、後半は逆に、念の行相に忿を従えて説明しているということなんですね。その説明が次に述べられています。
 「念は過去の次前の刹那を縁ず。亦過去を縁ずと名く。現在は一念なる故に、忿は分位の現在を縁ず。事の究竟せるに随って現在を縁ずと名く。即ち忿は亦刹那の過去を縁ず。忿と念との二法は随って行相に就いて、皆相応することを得、過失無きなり。」

 先ず、念は過去の認識対象を現在のものとして認識することが出来るということになります。このことは、忿が現在の認識対象(境)を認識する心所であることに違背するものではないということですね。つまり倶起するものである。
 例えば、過去の恨みとか、悔やまれることなども、現在の対象として起こってきます。過ぎ去った過去の出来事なのですが、そのことを対象として恨み等が起こってくるのは、現在の対象として認識しているからなんですね。
 過ぎ去ったことを思い出していろんな感情がわいてくる、特に過去の怨みを思い出して怒りですね、忿の心所ですが、過去のことを対象として、現在に忿が起こるのは、念がkのような出来事を現在の類境として認識していることにほかならにのですね。ですから現在んお境を認識して生起する忿と倶起することができるのです。
 また、念は過去の次前の刹那を縁ずと云われていますから、忿もまた刹那の過去を縁ずることが出来るわけです。つまり念と忿とが倶起することに何ら問題は無いということになります。

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