唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

『成唯識論』に学ぶ。 雑感 (2)

2016-02-21 23:44:09 | 『成唯識論』に学ぶ
今日が七十歳の誕生日。皆様方から暖かいお言葉をたまわりました。本当にありがとうございます。しっかりと胸に刻んで一歩一歩確かな歩みをつづけていけるよう精進いたします。

 昨日は触れませんでしたが、宗前敬叙分、帰敬頌、帰敬序には「唯識の性において満に分に清浄なる者に稽首す」そして発起序には「我れ今彼の説を釈して諸の有情を利楽せん。」と表白されています。『浄土論』の帰敬序にも「世尊、我一心に尽十方無碍光如来に帰命して、安楽国に生まれんと願ず」と。「偈の中に分って五念門と為す。」(『論註』)「礼拝門・讃嘆門・作願門を開かれ、発起序の「我」において国土荘厳十七種・仏荘厳八種・菩薩荘厳四種の三種二十九種荘厳が願心を以て荘厳されて云うことが明らかにされました。そして流通門、ここが廻向門として開かれてきます。「末後の一行は是れ廻向門なり。」ここにも「我」の一字がおかれています。「我」が三か所に配置されているわけですが、曇鸞大師はこの「我」を問題にされました。「我」は邪見語でもなれば、自らを大きく見せる自大語でもなく、如来より明らかにされた「我」、無我なる我であって、ここにですね、いかなる我であれ、浄土の入り口であるこの世の意義を自覚することの大切さを教えておられると思うんです。やっぱり、背景は無境なんでしょうね。本願は対象ではないということですね。本願は自体分が転じた本質相分であって、ここに影像相分として捉えていく我見が働いて流転していくのでしょう。むやみやたらに流転しているということではない、意味があると教えているのでしょう。
 
 「天親菩薩の一心は本願の三心の成就であって、即ち『無量寿経』下巻願成就の経文の意を天親菩薩自らが述べたものである。本願から見ると「我」は客であるが、客になることを通して本願の主となる客でる。『願生偈』は我の背景として本願を語ったのである。」と先達は教えてくださっています。「汝」と呼ばれた「我」ですね。
 よく紙一重のところが分からん、と聞きますが、紙一重のところで我を持ち替えてしまうのでしょうね。自己肯定の根の深さが知らされます。『十住毘婆沙論』序品の中で、この現生というものが六道輪廻の場所であると押さえられています。求道心の根っこに自己肯定の意識が働いている、そこが六道輪廻の存在としての人間存在であるということでしょうか。しかし、この六道輪廻は人間存在の命の私有化からもたらされるものであるという頷きなのでしょう。いうなれば、六道輪廻をする主体であるという自覚が回心と一つの出来事であると言えないでしょうか。
 
 『十住毘婆沙論』の序品の問いが、十地の意義を何故説くのかというものなのです。その答えとして次のように語られます。
 「地獄餓鬼畜生人天阿修羅の六趣は険難・恐怖・大畏あり。是の衆生は生死の大海に旋流澓(せんるかいふく)して、業に随って往来す。是は其の濤波(とうは)なり。・・・愛に随う凡夫は、無始より已来(このかた)常に其の中に行じて是の如く生死の大海に往来し、未だかって彼岸に到ることを得ること有らず。或は到る者有らば兼ねて能く無量の衆生を済度す、是の因縁を以て菩薩十地の義を説くなり。」
 そして輪廻を流転と押さえられています。
 「世間は愍傷すべし。常に皆自利に於いて、一心に富楽を求め 邪見の網に堕し、常に死の畏を懐きて、六道の中に流転す。」(『序品』第一)

 流転してきた自覚が六道を輪廻し、やっと人間としての生を受けた感動だと思うんです。僕は、六道輪廻の果として人間としての生を受けたという所に大きな意味があると思うんですね。善悪業果位として異熟識として、生存の根拠が語られているわけです。作意の心所の中で「謂く、此れが起こすべき心の種を警覚し、境に趣かしむる故に作意と名く」つまり、阿頼耶識の中の種子を目覚めさせ、心を起こし、心を対象に趣かしめる用きをもつものが作意というのだということですね。「彼(作意)縁に逢わざれば定んで生ぜざるが故に」(『述記』)と。いかなる縁に遇うのかが問われているわけです。我愛が現行している縁に会えば受は愛を引き、愛は取を招くわけです。

 随分横道にずれてしまいましたが、宗前敬叙分には、「正解を生ぜしめん」「唯識の理に於いて実の如く知ら令めんが故なり」「唯識の深妙の理の中に於いて実の如くを得せしめんが故に」。この理(ことわり)を理解するところから唯識の学びが始まるんですね。そしてまたこの理と解を正す為に『成唯識論』が作られた理由として語られます。

 「分からなくなったらはじめにかえる」、安田先生の言葉ですが、大乗の仏教が輪廻を語る時は、流転は生死流転を語り、輪廻は善悪業の果が六つの生存の在り方を自覚内容とするものではないでしょうか。夜分の投稿、ちょっとまた考えます。

 『成唯識論』に学ぶ。 雑感 (1)

2016-02-21 00:30:04 | 『成唯識論』に学ぶ
   『正信偈』

 護法菩薩は「唯識の理に迷謬せる者あり。」(唯識の真理を理解しない者(迷)や謬って理解する者(謬)がある。)
 迷謬せる者を四種類あげておられます。「迷」は無明、「謬」は謗法・仏智疑惑になります。
 (1)「外境は識の如く無に非ずと執し、」
 これが一番目です。境は対象ですから、対象は私と関係なく実在していると執着していること。外界実在論です。見渡せばあらゆるもの(一切諸法)は存在するではないか、どうして存在しないというのか。
 (2)「内識は境の如く有に非ずと執し、」
 二番目は、一切諸法が無であるように内識(心)も無であると執着する者がいる。心も無である、と。
 (3)「諸の識は用は別に体は同なりと執し、」
 三番目は、諸々の識(八識)という心のはたrきは(用)は別々、体は一つであると執着する者がいる。
 (4)「心に離れて別の心所は無しと執す。」
 これが四番目。心を離れて別に心所(心所有法・心の作用)は無いと執着している者がいる。

 これらの四種類を異執として挙げておらえます。このようなさまざまの異執を遮す為に、この『論』を造るのでると、論を造る意趣を述べておられます。
 唯識は説きます。1・2番目に対しては、唯識無境(唯だ識のみ有って境は無し)であり、境無識有(境は無なれども識は有である)である、と。3番目に対しては、体は八つある。八識別体である。眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識の八つの体は別々である、と。そして4番目に対しては、心と倶に用く心所は五十一あるといいます。
 これらの異執は遠い昔の話ではなく、現在の私たちの思考方法と同じですね。
 このような有り方が批判され、四有という考え方が生まれてきた背景にあるように思います。
 四有とは、四つの生存のありかたで、中有・生有・本有・死有を繰り返しながら生死輪廻するといわれています。
 八識別体ではありますが、本識は阿頼耶識として末那識及び六識は転識といわれています。本識である阿頼耶識は自相・果相・因相という三つの相を持つといわれ、果相は異熟識とおさえられています。善悪の業の結果として人として生を受け、一類相続して変化しないものである。過去の業を背負った身であり、過去のすべてを分別することなく引き受けた身でもあるのです。
 一類相続して変化しない身は常であると錯覚され、我は変化しないものとして執されてくるのです。これが我執の成り立ちです。この我執が生死輪廻することになります。
 やがて生死輪廻思想が厭世観とも結びつき厭離穢土・欣求浄土の国土の実体思想を生み出してきました。これが中有から生有の問題です。どこに生まれるのか、浄土に生まれるのか、再び四有を繰返して輪廻するのかということから、臨終来迎思想が生まれました。初期の観経理解ですね。

 「あるいは衆生ありて、不善業たる五逆・十悪を作る。もろもろの不善を具せるかくのごときの愚人、悪業をもってのゆえに悪道に堕すべし。多劫を経歴して、苦を受くること窮まりなからん。かくのごときの愚人、命終の時に臨みて、善知識の、種種に安慰して、ために妙法を説き、教えて念仏せしむるに遇わん。この人、苦に逼められて念仏するに遑あらず。善友告げて言わく、「汝もし念ずるに能わずは、無量寿仏と称すべし」と。(『仏説観無量寿経』)

 いのちの営みは刹那なんです。一瞬のうちに消え去っていくいのちを相続しているのがいのちの実相です。阿頼耶識は「恒に転ずること暴流の如し」、私たちの執着は、諸行は無常であることは承知なんですね。私は老いる者であることは知っているが、無常の中でも変わらない自分はいると思っているのですね。それこそ、一類に相続して変わらない自分(アートマン)が存在しているという思いがあるわけです。これが迷いの根っこに根を張っていることいなり、それに気づきを得ない自分がいる、ここに迷いの主体である阿頼耶識と、目覚めを待つ阿頼耶識の二面性がうかがえるわけです。無住処涅槃の広大なる世界が今、現に、此処に広がっている、水に漂う浮き草のような自己ですが、自己の存在する世界は広大無辺なのですね。 雑感です、もう少しつづきます。