今日が七十歳の誕生日。皆様方から暖かいお言葉をたまわりました。本当にありがとうございます。しっかりと胸に刻んで一歩一歩確かな歩みをつづけていけるよう精進いたします。
昨日は触れませんでしたが、宗前敬叙分、帰敬頌、帰敬序には「唯識の性において満に分に清浄なる者に稽首す」そして発起序には「我れ今彼の説を釈して諸の有情を利楽せん。」と表白されています。『浄土論』の帰敬序にも「世尊、我一心に尽十方無碍光如来に帰命して、安楽国に生まれんと願ず」と。「偈の中に分って五念門と為す。」(『論註』)「礼拝門・讃嘆門・作願門を開かれ、発起序の「我」において国土荘厳十七種・仏荘厳八種・菩薩荘厳四種の三種二十九種荘厳が願心を以て荘厳されて云うことが明らかにされました。そして流通門、ここが廻向門として開かれてきます。「末後の一行は是れ廻向門なり。」ここにも「我」の一字がおかれています。「我」が三か所に配置されているわけですが、曇鸞大師はこの「我」を問題にされました。「我」は邪見語でもなれば、自らを大きく見せる自大語でもなく、如来より明らかにされた「我」、無我なる我であって、ここにですね、いかなる我であれ、浄土の入り口であるこの世の意義を自覚することの大切さを教えておられると思うんです。やっぱり、背景は無境なんでしょうね。本願は対象ではないということですね。本願は自体分が転じた本質相分であって、ここに影像相分として捉えていく我見が働いて流転していくのでしょう。むやみやたらに流転しているということではない、意味があると教えているのでしょう。
「天親菩薩の一心は本願の三心の成就であって、即ち『無量寿経』下巻願成就の経文の意を天親菩薩自らが述べたものである。本願から見ると「我」は客であるが、客になることを通して本願の主となる客でる。『願生偈』は我の背景として本願を語ったのである。」と先達は教えてくださっています。「汝」と呼ばれた「我」ですね。
よく紙一重のところが分からん、と聞きますが、紙一重のところで我を持ち替えてしまうのでしょうね。自己肯定の根の深さが知らされます。『十住毘婆沙論』序品の中で、この現生というものが六道輪廻の場所であると押さえられています。求道心の根っこに自己肯定の意識が働いている、そこが六道輪廻の存在としての人間存在であるということでしょうか。しかし、この六道輪廻は人間存在の命の私有化からもたらされるものであるという頷きなのでしょう。いうなれば、六道輪廻をする主体であるという自覚が回心と一つの出来事であると言えないでしょうか。
『十住毘婆沙論』の序品の問いが、十地の意義を何故説くのかというものなのです。その答えとして次のように語られます。
「地獄餓鬼畜生人天阿修羅の六趣は険難・恐怖・大畏あり。是の衆生は生死の大海に旋流澓(せんるかいふく)して、業に随って往来す。是は其の濤波(とうは)なり。・・・愛に随う凡夫は、無始より已来(このかた)常に其の中に行じて是の如く生死の大海に往来し、未だかって彼岸に到ることを得ること有らず。或は到る者有らば兼ねて能く無量の衆生を済度す、是の因縁を以て菩薩十地の義を説くなり。」
そして輪廻を流転と押さえられています。
「世間は愍傷すべし。常に皆自利に於いて、一心に富楽を求め 邪見の網に堕し、常に死の畏を懐きて、六道の中に流転す。」(『序品』第一)
流転してきた自覚が六道を輪廻し、やっと人間としての生を受けた感動だと思うんです。僕は、六道輪廻の果として人間としての生を受けたという所に大きな意味があると思うんですね。善悪業果位として異熟識として、生存の根拠が語られているわけです。作意の心所の中で「謂く、此れが起こすべき心の種を警覚し、境に趣かしむる故に作意と名く」つまり、阿頼耶識の中の種子を目覚めさせ、心を起こし、心を対象に趣かしめる用きをもつものが作意というのだということですね。「彼(作意)縁に逢わざれば定んで生ぜざるが故に」(『述記』)と。いかなる縁に遇うのかが問われているわけです。我愛が現行している縁に会えば受は愛を引き、愛は取を招くわけです。
随分横道にずれてしまいましたが、宗前敬叙分には、「正解を生ぜしめん」「唯識の理に於いて実の如く知ら令めんが故なり」「唯識の深妙の理の中に於いて実の如く解を得せしめんが故に」。この理(ことわり)を理解するところから唯識の学びが始まるんですね。そしてまたこの理と解を正す為に『成唯識論』が作られた理由として語られます。
「分からなくなったらはじめにかえる」、安田先生の言葉ですが、大乗の仏教が輪廻を語る時は、流転は生死流転を語り、輪廻は善悪業の果が六つの生存の在り方を自覚内容とするものではないでしょうか。夜分の投稿、ちょっとまた考えます。
昨日は触れませんでしたが、宗前敬叙分、帰敬頌、帰敬序には「唯識の性において満に分に清浄なる者に稽首す」そして発起序には「我れ今彼の説を釈して諸の有情を利楽せん。」と表白されています。『浄土論』の帰敬序にも「世尊、我一心に尽十方無碍光如来に帰命して、安楽国に生まれんと願ず」と。「偈の中に分って五念門と為す。」(『論註』)「礼拝門・讃嘆門・作願門を開かれ、発起序の「我」において国土荘厳十七種・仏荘厳八種・菩薩荘厳四種の三種二十九種荘厳が願心を以て荘厳されて云うことが明らかにされました。そして流通門、ここが廻向門として開かれてきます。「末後の一行は是れ廻向門なり。」ここにも「我」の一字がおかれています。「我」が三か所に配置されているわけですが、曇鸞大師はこの「我」を問題にされました。「我」は邪見語でもなれば、自らを大きく見せる自大語でもなく、如来より明らかにされた「我」、無我なる我であって、ここにですね、いかなる我であれ、浄土の入り口であるこの世の意義を自覚することの大切さを教えておられると思うんです。やっぱり、背景は無境なんでしょうね。本願は対象ではないということですね。本願は自体分が転じた本質相分であって、ここに影像相分として捉えていく我見が働いて流転していくのでしょう。むやみやたらに流転しているということではない、意味があると教えているのでしょう。
「天親菩薩の一心は本願の三心の成就であって、即ち『無量寿経』下巻願成就の経文の意を天親菩薩自らが述べたものである。本願から見ると「我」は客であるが、客になることを通して本願の主となる客でる。『願生偈』は我の背景として本願を語ったのである。」と先達は教えてくださっています。「汝」と呼ばれた「我」ですね。
よく紙一重のところが分からん、と聞きますが、紙一重のところで我を持ち替えてしまうのでしょうね。自己肯定の根の深さが知らされます。『十住毘婆沙論』序品の中で、この現生というものが六道輪廻の場所であると押さえられています。求道心の根っこに自己肯定の意識が働いている、そこが六道輪廻の存在としての人間存在であるということでしょうか。しかし、この六道輪廻は人間存在の命の私有化からもたらされるものであるという頷きなのでしょう。いうなれば、六道輪廻をする主体であるという自覚が回心と一つの出来事であると言えないでしょうか。
『十住毘婆沙論』の序品の問いが、十地の意義を何故説くのかというものなのです。その答えとして次のように語られます。
「地獄餓鬼畜生人天阿修羅の六趣は険難・恐怖・大畏あり。是の衆生は生死の大海に旋流澓(せんるかいふく)して、業に随って往来す。是は其の濤波(とうは)なり。・・・愛に随う凡夫は、無始より已来(このかた)常に其の中に行じて是の如く生死の大海に往来し、未だかって彼岸に到ることを得ること有らず。或は到る者有らば兼ねて能く無量の衆生を済度す、是の因縁を以て菩薩十地の義を説くなり。」
そして輪廻を流転と押さえられています。
「世間は愍傷すべし。常に皆自利に於いて、一心に富楽を求め 邪見の網に堕し、常に死の畏を懐きて、六道の中に流転す。」(『序品』第一)
流転してきた自覚が六道を輪廻し、やっと人間としての生を受けた感動だと思うんです。僕は、六道輪廻の果として人間としての生を受けたという所に大きな意味があると思うんですね。善悪業果位として異熟識として、生存の根拠が語られているわけです。作意の心所の中で「謂く、此れが起こすべき心の種を警覚し、境に趣かしむる故に作意と名く」つまり、阿頼耶識の中の種子を目覚めさせ、心を起こし、心を対象に趣かしめる用きをもつものが作意というのだということですね。「彼(作意)縁に逢わざれば定んで生ぜざるが故に」(『述記』)と。いかなる縁に遇うのかが問われているわけです。我愛が現行している縁に会えば受は愛を引き、愛は取を招くわけです。
随分横道にずれてしまいましたが、宗前敬叙分には、「正解を生ぜしめん」「唯識の理に於いて実の如く知ら令めんが故なり」「唯識の深妙の理の中に於いて実の如く解を得せしめんが故に」。この理(ことわり)を理解するところから唯識の学びが始まるんですね。そしてまたこの理と解を正す為に『成唯識論』が作られた理由として語られます。
「分からなくなったらはじめにかえる」、安田先生の言葉ですが、大乗の仏教が輪廻を語る時は、流転は生死流転を語り、輪廻は善悪業の果が六つの生存の在り方を自覚内容とするものではないでしょうか。夜分の投稿、ちょっとまた考えます。