唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 随煩悩 諸門分別 (21) 第六 別境相応門 (5)

2016-02-10 22:18:52 | 第三能変 随煩悩の心所
 

 念の心所について (2)
 「謂く、数(しばしば)曾(むかし)受けし所の境を憶持して亡失せざら令め、能く定を引くが故に」(『論』第五・三十右)
 念の働きをさらに詳しく説明します。つまり、しばしば、むかし受けた所の認識対象を憶持(記憶して維持すること)して忘れないようにし、よく定を引き起こすからである。
 『述記』には「重ねて業用を釈す。」と科文されています。「曾し受けし所の境」というは、念の中に、或いはすでにかの体を受けしことあり。或いは未だ体を得せず、ただかの類をうくるなり。無漏を縁ずる染汚心等の如し。即ち近く親取するを、かの体を縁ずとなづく。もし遠く取って着せざるを総じてこの類となづく。他界縁の使等を並びにかの類に摂す。後得智の有漏無漏を縁ずる等は、かの体を念ずとなづく。真如を縁ずる等は、かの類と名等を縁ずと名づく。無分別智の真如を縁ずる時は、かの体を縁ずとなづく。初起の一念は、かの類を縁ずとなづく。曾受にあらずといえども、曾し(真如の)名を受けしが故に。加行道のうちに、かの観を作せしが故に、名づけて曾の体となす。またかの類ともなづく。心をして明記せしめ、此れが定を生ずというは、多く増せるによるが故なり。定は専注なるが故なり。即ちただ善の念が正定を生ずるが故なり。もし散心の念ならば、必ずしも定を生ずるに非ず」(『述記』)
 念は、心に対象を明記せしめ、定を生起させてくるのは、多増(多くは念の力によって増進するという)するからであり、定に専注(せんしゅ)するからであるという。すなわち、善の念が正定を生じるのであって、散心の念は定を生じるものではないという。
 
 体(境)と類(境)について
 念の対象は、曾習の境です。串習の境ともいいます。「数曾受けし所の境」のことです。この念の境が体境と類境の二つに大別されます。この体境と類境に二通りの考え方があるといわれています。
 1、直接的に、その体を縁じるものを体境、間接的に名等と縁じるものを類境とするもの。
 2、過ぎ去った体を縁じるのを体境、後に、重ねて、また縁じるのを類境とするもの。
 ここに述べられています体境・類境は私たちの聞法や念仏と大きく関わった問題を提起しています。(1)で述べられていますことは、「曾し、未だ受けざる体と類との境の中に於いては、全に念を起さず」ということです。すなわち、直接的に経験し認識したこと(体境)がなく、名を聞いた(類境)ことさえないものにおいては、すべてにおいて念はおこらないという。名を聞いた、ということは仏の名号や涅槃等の名を聞くということです。名を聞くということ、聞名です。これが人生のキ-ワ-ドになるということを教えています。
体境・類境のニ義について、「むかし、受けしところの境」、過去に直接的に認識した対象を体境(念の中に、すでにかの体を受けしことあり)といい、或いはそうでないもの、直接的に認識するものではなく、間接的に、その対象を認識するものを類境と。間接的にという意味は、「無漏を縁ずる染汚心等の如し」といわれ、無漏という認識対象の名前を縁じるということが、類境といわれるのです。私たちの染汚心をもって、無漏の教えを念じられるのか、真如を認識するというということはどういうことなのか、「真如を縁ずる等は、かの類と名等を縁ずと名づく」といわれていますように、真如という名前を尋ねることによって、「むかし受けた認識対象」になるというのです。名前を聞くことに於いて、仏法が憶念されるということです。私は、かって二十代の頃、少しばかり仏法に触れる機会を与えられました。しかし、いつの間にか、世間の荒波に翻弄され(翻弄されていると思っていました。自分が世間を造っている張本人であることを知ることはありませんでしたね。)、自己中心の生活を送っておりました、今もその流れは断ち切れてはいませんが、かって訓覇先生が「仏法は毛穴の中に染みいるものだ」と教えられていましたその事の意味が、今の私には本当に「ありがたい」という意味をもって、私を迎え入れてくれています。無漏の教え、真如という言葉、仏を念ずるということなど、その名で真実を尋ねる場合、それが「曾習の境」となり、念の対象となり得るといわれているのです。「曾受にあらずといえども、曾し名を受けしが故に・・・名づけて曾の体となす。またかの類ともなづく」と。直接的に仏を観たこともなく、無分別智の真如も観じたことがなく、涅槃も証してはいないので、体境としては念の境にはならないけれども、その名を縁じることにおいて、類境として念の境として成り立つといわれるのです。教えを聞くことの大切さを痛感します。
 聞法を通し、我執を縁として必至滅度の道が開かれていたんですね。我執は染汚心ですが、この染汚心が、類境として、無漏を縁じることが出来ると説かれていることに驚きを隠せません。また、「他界縁の使等を並にかの類に摂す」ともいわれています。他界の縁の使いなども類境に摂める、と。これは三界のなかの上界ですね。私たちは欲界でうごめいているわけですが、その欲界のなかで、上界の事を名で尋ねて縁じる事であると説明されています。聞法が念の対象になり、心に明記して忘れないこと、という意義を持ち、聞いたことは、必ず身についているというになるのですね。そのことが、私をして願生浄土の道を歩ませるのです。

 「曾、未だ受けざる体と類との境の中に於いては、全に念を起さず」(『論』第五・三十右)
  過去から現在に至るまで、いまだに受けていない体(直接説的に認識したこと)もなく、類(名を聞く)もないものなどには、全てにおいて念は起こらない、という。
 未だかって涅槃等の名を聞いていなければ、経験も体験もないのであるから、体境はなく、名を聞いていないのであるから、類境もない。そのような場合には念は全く起こらないと云われています。仏が明らかにされた法を聞くことの大切さを述べているのですが、聞薫習といわれます。聞いたことが身につくわけです。種子として身に宿るわけですね。聞いたということが、類境として存在するわけです。それがやがて念を起す縁となるわけです。存在するということは、心に明記される、という表現になるわけです。今述べていることは、善に対する方向性ですが、三性に通じているわけですから、悪の方向性も当然ながらあるわけです。悪事の体境や、悪という名で心に受ける、類境もあります。また、三世ですね。未来に対して念を起すこともあると、その場合は過去と合わせて縁じるといわれています。
ここで、念は遍行ではなく、別境であるという理由を示し、有部の教説を批判します。
 「設い曾し受けし所なりとも、明記すること能わざるには、念亦生ぜず。故に念は必ず遍行に摂めらるるものには非ず」(『論』第五・三十右)
 涅槃・真如・浄土等の名を聞いてはいても、心に明記しないもの、あるいは明記できないものについては、その場合には念は生じない。その為に、念は遍行に摂められるものではなく、別境であると明らかにしています。
 前の心王と心所と。或いは想の勢力とが、後の時の憶念の因となることで、説明は十二分に尽くしている。憶念については、本識(阿頼耶識)の中に(薫習された種子)をもって、後の時の憶念の因とする。有部の説のように、憶念を説明するのに、前の時の念を用いるということは必要ないのである。また想の心所によって、後時の念が生ずることを説明し得るのである。即ち、阿頼耶識の中に薫習された種子が後時に現行するのであって、念の心所も本識の中の念の種子が現行するのである。したがって、有部のいうように、前の時の念を、後の時の念を生ずる因とするということは言わなくても事足りるのである。「想は取像すること勝れるが故に」といわれています。想は遍行の心所ですが、想は心が対象を認識する時、その対象が何であるのかということを心に描きだすことが勝れている。(見分・相分の種子を阿頼耶識の中に薫習し)これが因となって後の時の憶念を生ずるということ、説得するのに足りるという。(前の念が後の念の因となるというが、必ずしも念を必要とせぬので、想で十分の場合もある。-『安田理深選集』巻三p293より抜粋)