後半は、小随煩悩と根本煩悩の相応について述べられます。これが二つに分けられて説明されます。
先ず、小随煩悩と見(五見)と疑との相応について説明され、次いで、貪・瞋・癡・慢との相応について説明されます。
本科段は初になります。
「小の十は定んで見と疑とは倶起するに非ず。此は相麤動なり。彼には審細なるが故に。」(『論』第六・三十四右)
(小随煩悩の十は絶対に五見と疑とは倶起(相応)しない。何故ならば、此れ(小随煩悩)は行相が麤動であり、逆に彼(五見と疑)は行相が審細であるからである。)
小随煩悩の行相と根本煩悩の五見・疑との行相が違背することから相応しないと説明しています。つまり、小随煩悩の十は行相も体性も倶に麤動(粗い心所)であるが、五見と疑は行相が審細(細やかな心所)であるから相応しないのであると。
次いで、小随煩悩と貪・瞋・癡・慢との相応について説明されます。小随煩悩と貪・瞋・癡・慢との相応について説明するのに、大きく四つに分かれて説明されます。本科段は初です。第二は慳と貪・瞋・癡・慢の相応について、第三は憍と貪・瞋・癡・慢との相応について、第四は覆と誑と諂と貪・瞋・癡・慢との相応について説明されます。
初、
「忿等の五法は慢と癡とは倶なる容し。貪と恚とは並ぶに非ず。是れ瞋の分なるが故に。」(『論』第六・三十四右)
(忿等の五法(忿・恨・惱・嫉・害)は慢と癡とは倶である。しかし忿等の五法は貪と恚とは並起しない、つまり相応しないのである。何故ならば、忿等の五法は瞋恚の一分(分位仮立法)であるから。)
「論。忿等五法至是瞋分故 述曰。忿・恨・惱・嫉・害。容得慢・癡二法倶。非貪・恚二並。與貪行定相違故。瞋是忿等自體相故。由此證知。不共無明分位忘念・不正知。不遍此心。即癡分故。此義應思。不言不共無明定得與倶。但言與十倶。即此無明時。或有惠分故。然癡分者定遍一切染心聚故。非言不共無明一法。定與惡惠倶。此無明聚中。餘法與此倶故。即於無明假建立故。」(『述記』第六末・九十七右。大正43・463c)
(「述して曰く。忿と恨と惱と嫉と害とは慢と癡 との二法と倶なることを得容し。貪と恚との二は並するに非ず。貪の行とは定んで相違するが故に。瞋は忿等の自體の相なるが故に。此れに由って證知す。不共無明の分位の忘念と不正知とは此の心に遍せず。即ち癡の分なるが故に。この義思うべし。不共無明は定んで倶なることを得と言わず。但だ(忘念と不正知とは)十と倶なりと言う。即ち此の無明の時は、或は慧の分有るが故に。然るに癡の分は定んで一切の染の心聚に遍ぜるが故に。不共無明の一法は、定んで悪慧と倶なりと言うに非ず。此の無明の聚の中には、余の法も此れと倶なるが故に。即ち無明に於いて仮に建立せるが故に。」)
『述記』には詳しく説明されています。先ず十の根本煩悩の中から、五見と疑と小随煩悩の相応について説明されましたので、残る貪・瞋・癡・慢の根本煩悩と小随煩悩の相応は如何という問題です。本科段は、忿等の五法(忿・恨・惱・嫉・害)と貪・瞋・癡・慢との相応について検討されます。
忿・恨・惱・嫉・害の小随煩悩は瞋恚の分位仮立法であること。「瞋は忿等の自體の相なるが故に」ということ。忿等の五つの心所の自体は瞋であるということになります。従って瞋の分位仮立法である忿等の五つの心所は貪とは相応しないのです。貪は瞋と疑とは相応しないことは既に述べました。(煩悩の自類相応門において説明されています。)
次に問題となるのは、忿等の五法は瞋とは並起しないということです。これは瞋と瞋との相応の問題です。二つの心所が並起することはないわけですから、瞋と瞋の分位である忿等の五法とは相応しないということになります。
もう一つの問題は、「忿等の五法(忿・恨・惱・嫉・害)は慢と癡とは倶である」ということです。これは瞋と慢との相応・不相応の問題であり、瞋と癡との相応・不相応の問題になります。ここも煩悩の自類相応門で明らかにされていますが、瞋は慢と疑とは相応する、或は相応しない場合もあるが、瞋は癡とは常に相応するのである。癡はすべての煩悩と必ず相応して働きます。何故なら、諸々の煩悩が生起するおは、必ず癡を依り所としているからなんですね。
詳細につきましては、2014年7月11日より2014年8月14日の項を参考にしてください。尚、自類相応門の自類とは煩悩法であり、問いと答えが示されています。概要としては、煩悩法について、煩悩同士の倶起(相応)を説明する科段になります。十煩悩の中で、同時に並存するものと、並存しないものがあることの問題を論じるところになります。例えば、貪の煩悩は瞋と疑とは倶起しないと説かれているが、その理由とは何なのか。逆に、慢と見とは相応すると説かれているのは何故か等、私たちの迷いの複雑さを解明してきます。十の煩悩同士がどういう関係になるのかが説かれますが、結びとして、「癡は九種と皆定めて相応す」と説かれています。癡は癡以外の九種の煩悩と必ず相応するんだ、ということですね。