唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 随煩悩 諸門分別 (28) 第七 根本相応門(本惑倶起門) (1)

2016-02-18 22:25:51 | 第三能変 随煩悩の心所
  

 上来は随煩悩と別境の相応について説かれてましたが、第七は、大・中・小の随煩悩と根本煩悩との相応について説明され、根本相応門(根本煩悩と相応する門)と名づけられています。
 初めに、中の二と大の八が根本煩悩と相応することについて説かれ、後に小の十と根本煩悩の相応について説かれます。
 本科段は初の説明です。
 「中の二と大の八とは十の煩悩と倶なり。」(『論』第六・三十四右)
 中とば、中随煩悩で無慚・無愧の二つを指します。
 大とは、大随煩悩で掉挙(のぼせ)、惛沈(おちこみ)、不信(まごころのなさ)、懈怠(おこたり)、放逸(いいかげんさ)、失念(ものわすれ)、散乱(気が散っていること)、不正知(正しいことを知らないこと)の八つを指します。
 大は微細に働く随煩悩で、染心に遍く存在しますから十の根本煩悩とすべて相応します。
 中の随煩悩も不善心に遍く存在しますから十の根本煩悩と相応します。

 但し、根本煩悩の中で、分別起と倶生起のもの、或は分別起だけのもの、そして、分別起は不善であるが、倶生起は有覆無記であるものがあり、根本煩悩の十の分別起で働いている不善は中随煩悩と相応しますが、倶生起は倶生起とのみ相応すると云われています。随煩悩も分別起と倶生起があるわけですから、倶生起の中随煩悩は不善と倶に相応しますから、根本煩悩の中の薩迦耶見の倶生起の煩悩と辺執見の倶生起煩悩とは有覆無記になりますので、中随煩悩の二とは相応しないことになります。
 余談ですが、これは欲界での出来事です。色界及び無色界では瞋は存在しません。瞋を除いた九は分別起及び倶生起はすべて有覆無起になりますから、色界及び無色界には中随煩悩は存在しないことになります。当然、小随煩悩も存在しません。大随煩悩は微細に働きますから三界を通じて存在します。このことに於いて三界は迷いの世界であることが知れるわけです。

 「三界は是虚僞の相、是輪轉の相、是无窮の相にして、蚇(しゃく) 尺音(しゃくのおん) 蠖(くわく) 屈(かが)まり伸(の)ぶる蟲(むし)なり一郭反(いちかくのかえし) 循環(じゅんかん)するが如く、蠶(さむ) 才含反(さいがんのかえし) 繭(けんI 蠶衣(さむえなり)公殄反(こうてんのかえし) 自ら縛わるるが如くなり。」
 「哀れなるかな衆生此の三界顛倒の不淨に締(しば) 結不解帝音(むすびてとけず。ていのおん) わるるを見そなわして、衆生を不虚僞の處に不輪轉の處に、不无窮の處に置て畢竟安樂の大淨處を得しめむと欲しめす。是の故に此の淨莊嚴功を起したまふなり。」
 「此の三界はけだし是れ生死の凡夫流轉の闇宅なり。」と。
 (『浄土論註』)
 善導大師は「帰去来(いざいなん)魔界には停まるべからず」(『定善義』・『法事讃』)と仏の正意を明らかにしてくださいましたが、魔界は自らが演出したものであったという自覚なんですね。
 宗祖も『証巻』・『真仏土巻』・『化身土巻』に「帰去来、魔郷に停まるべからず。曠劫よりこのかた六道に流転して、尽くみな径たり。いたるところに余の楽なし。」と引用されています。
 『三界は是れ一心の作なり。」(『華厳経』)ただ識のみの世界なんですね。自らが自らの業に依って六道を流転してきた歴史があるという頷きですね。
 蚕と尺取虫の喩がだされて、三界は自縄自縛の世界であり、その世界を構成しているのは他ならぬ自分であると、曇鸞大師は「礙は自に有り」とご自身の機の深信を告白されています。
 宗祖親鸞聖人も、二種深信において、出離の縁有ること無しのわが身をいただいておられます。慚愧心と歓喜心のハーモニーが如来回向を見事に表現されているように思います。
  
 「無慚無愧のこの身にて
   まことのこころはなけれども
   弥陀の回向の御名なれば
   功徳は十方にみちたまう」

 「小慈小悲もなき身にて
   有情利益はおもうまじ
   如来の願船いまさずは
   苦海をいかでかわたるべき」

 「蛇蝎奸詐のこころにて
   自力修善はかなうまじ
   如来の回向をたのまでは
   無慚無愧にてはてぞせん」(『正像末和讃』)

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