第三は、憍と貪・瞋・癡・慢との相応について説明されます。
「憍は唯癡のみと倶なり、慢とは解別(げこと)なり、是れ貪の分なるが故に。」(『論』第六・三十四右)
(憍はただ癡のみと相応する。従って貪・瞋・慢とは相応しない。慢とは行解(ぎょうげ)が異なるからである。何故なら、憍は貪の一分だからである。)
行解 ― 心のなかに生じる影像をとらえる認識のありようをいう。つまり、心・心所が対象に働きかけて、対象を認識する心のありかたです。
憍とはどのような心所なのか、少し振り返りますと、
小随煩悩の第十番目に説かれるのが憍(きょう)の心所です。
「云何なるをか憍と為る。自の盛んなる事の於(うえ)に深く染著(ぜんじゃく)を生じて酔倣(すいごう)するを以て性と為し、能く不憍を障え染が依たるを以て業と為す。」(『論』第六・二十六右)
(どのようなものが憍の心所であるのか。憍とは、自分のおごれることに対して、深く執着を生じて驕ることを以て本質とし、よく不憍を妨害し染を所依として働く心所である。)
憍 ― おごる心の働き。
何に対して驕るのかと云いますと、自分の地位や財産や名誉といった飾り物を誇るわけです。
『顕揚論』巻第一に「謂く暫く世間の興盛(こうじょう)等の事を獲て、心に恃(たの)んで高挙(こうこ)すと云えり。」或は『対法論』巻第一には「一の栄利の事に随って、謂く長壽の相等と云えり。」と解釈されています。
興盛とは世間での繁栄、或は過去と現在を比較して、現在が過去よりも裕福で勢力があること。これによってですね、心に恃んで驕ることである。自分を見忘れて、自分でないものを自分として恃んでいるわけです。これが縁となって憍が生起してくると云われています。
「憍ハ、我ガ身ヲイミジキ物ニ思ヒテオゴレル心ナリ。」(『二巻鈔』)と、良遍は説明しています。
イミジキ ― すぐれている。すばらしい。
(自分を勝れている者と思い、そんな自分に執着し驕れる心である。)
「能く不憍を障え染の依たるを以て業と為す。」(『論』第六・二十六右)
(よく、不憍を障礙し、染法の依り所となることを以て業とする心所である。)
不憍とは憍とは正反対の心所ですから、おごらない心の働きであり、不憍の者は一切の善法を生長させる働きを持つのですね。不憍とは無貪ということなのです。
憍は一切の煩悩の所依と為る、つまり、憍が煩悩・随煩悩のすべての依り所となるという意味なんですね。ここは非常に大事なことを教えています。私たちの苦悩の根っこに、自己を高挙する心が働いているということなんですね。
ここが見えないとですね、いつでも他を悪者に仕立て上げて自分を満足させようとするわけでしょうね。
憍は、自分自身に深く執着を起こし、酔傲する、酔はようこと、傲はおごることですから、自分自身に酔いしれて自分自身に驕り深く執着を起こしているんですね。ここで憍酔の者は、何を障礙し、何を生長させるのかが問われるわけです。
・ 「能く不憍を障え、染の依たるを以て業と為す。」
・ 「憍酔の者は、一切の雑染の法を生長するが故に。」
二つの理由を挙げて説明されています。
一つ目の理由は、よく不憍を障礙(妨げる)して、染法(一切の有漏法。惑・傲・苦の雑染法)の依り所となることを以て業とする心所である。不憍とは何かという問題もありますが、憍の解釈から伺いますと、「自の盛んある事に対して深く染著を生じ、酔傲することのないことを以て性とし」そして、「不憍は憍を対治して、善法の依り所となることを以て、その働きとする心所である。」と云えましょう。
「此れも亦貪愛の一分を以て体と為す。貪に離れて別の憍の相用無きが故に。」(『論』第六・二十六右)
(此れもまた、貪愛の一分を以て体とする心所である。何故ならば、貪に離れては別のものとして存在する憍の体も作用もないからである。)
重ねて、「憍は、一切の煩悩・随煩悩の所依となる、」ここは注意しないといけないところだと思います。自らの驕り高ぶりは自らへの貪り、貪愛です。貪愛は他との比較ではないのです。ただただ我が身可愛さです。この独りよがりが、すべての迷いの依り所となっていると教えています。自分が幸せになろうと思って、自分を縛り、苦しめているという顚倒が起っているわけですね。
次に憍と慢とは行解が異なるといわれ、相応不相応の関係では、相応しないということなんですが、非常に解りにくいところです。次回に考えてみたいと思います。今日は復習になりました。
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