唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

『阿毘達磨倶舎論』に学ぶ。 本頌 (11)  第一章第二節

2012-11-04 17:59:31 | 『阿毘達磨倶舎論』

51zvne7mvcl__sl500_aa300_ 第十六頌 「識謂各了別 此即名意処 及七界応知 六識転為意」
 (識は各々了別す、此れを即ち意処と、及び七界と名づく。応に知るべし、六転識ずるを意と為す。)

 識蘊について
 識蘊とは、心王であって、これを六種に分ける。これを六識と名づける。識とは現在の心につけられた名である。心・意・識は、原始仏教以来、同義語として使われていますが、大乗仏教において、心は第八識・意は第七識・識は六識の名として了別されています。ここでは同義語として原始仏教以来、有為を構成する五つのグループ(五蘊)の一つの識蘊となります。十二処でいえば意処、十八界でいうと七心界(眼識界・耳識界・鼻識界・舌識界・身識界・意識界・意界)です。
 心王・心所有法(心・心所)の説明は大・小共通のものですが、心王は境の総相を認識し、心所は境の別相を認識すると説明されています。六識の所依は六根、その所縁は六境、根・境・識で十八界を、そして六根と六境とで十二処であると表しています。
 ここに識と意の問題が生じてきます。識と意は同義語であるから、意界を立てる必要はないのではないか、この問いに対して、六識が過去に去ったその刹那を意根と名づけるのである。次の識が生起するについては、前の識が過去へ去らなければならない、その前の識を特に意根というのであると説明されます。従って、前の識を所依として後の識が生起することになります。次の識の所依になるわけです。
 ここに唯識と有部では解釈が異なるのです。唯識では「倶に転ずる」、眼識と耳識は共に働くと認めていますが、有部は倶転は認めていないのです。二心並起を許さず、と云います。実際の感覚からすれば、同時に見るのと、聞くのが起こるように思いますが、有部の教説は、見ることと、聞くことは速やかに交互に作用しているのであって、同時ではないと解釈しているのですね。意根を介して次の識が生起するというので、

 第十七頌

 「由即六識身 無間滅為意」(即ち六識身の、無間に滅するに由って意と為す。)

 頌文に無間滅といわれているのです。意根の説明になります。六識が過去に去ったその刹那を意根という、と。

 「成第六依故 十八界応知」(第六の依を成ずるが故に、十八界なること応に知るべし。)

 第六意識の境は法境、所依の第六根を意根として十八界が成り立っていると説明しています。これによって、有部の教説、究極的な存在要素(ダルマ)を、五位七十五法と示しています。前に図式を掲載していますので参考にしてください。


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