唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 ・善の心所 慚と愧の心所について (16)

2013-06-17 23:10:26 | 心の構造について

 自他について説明する。

 「然も聖教に、自と他とを顧みると説けるは、自と法とを自と名け、世間を他と名く、或は即ち此が中に善と悪とを崇し拒すといえり、己を益し損するに於て自他と名くるが故に。」(『論』第六・三左)

 前半は、しかも聖教に自と他を顧みると説かれているのは、自と法とを自と名づけ、世間を他と名づけているのである。
 或は、『論』の中に、善を崇し、悪を拒むと説かれている。或は、損益に於いて自他と名づけているのは『論』の記述と同じ意味である。この科段は『述記』に二釈を以て答えています。

 「論。然諸聖教至名自他故 述曰。下解自・他。其中二釋。一自身及法名自。世間王法等名他。内外異故。又涅槃經・對法等。説此二別顧自他者。崇善是顧自義。拒惡名顧他義。所以者何。下通二義。於己益名自。於己損名他。故即會自他是二別相。正理論師云。羞現罪因名自。現屬身故。羞罪果名他。非現屬己故。今顯別彼也。」(『述記』第六本下・十二右。大正43・436a)

 (「述して曰く。下は自他を解す。其の中に二釈あり。
 一に、自身と及び法とを自と名づけ、世間の王法等を他と名づけ、内と外と異なる故に。
 又(二に)、涅槃経・対法等に、此の二が別なることを説くに、自と他を顧みるは、善を崇するは是れ自に顧みる義なり。悪を拒するは他を顧みる義に名づく。所以は何ん。下は二義を通す。己に於て益するを自と名づけ、己に於て損するを他と名づくるが故に。即ち自他は是れ二の別相なりと会す。正理論師(巻十)云く、現の罪の因を羞するを自と名づけ、現に身に属するが故に、罪の果を羞るをば他と名づく。現に己に属するに非ざるが故に。今は彼に別なることを顕すなり。

 この科段は、他の文献と『論』の記述とを会通します。

                            (つづく)


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