第三能変 別境 八識分別門 (1)
八識における別境の心所の有無について
「第七・八識には、此の別境の五、位に随って有無なりということは、前にすでに説くが如し」(『論』)
「述曰。この七八識の、もしは因もしは果の位に、あるいは有あるいは無なりということ、前にすでに説けるが故に」(『述記』)
八識分別とは、八識各々における五別境の有無と相応について述べるところです。
「前にすでに説くが如し」は、『論』巻第三・第四・第五の記述を指します。巻第三に於いては、阿頼耶識について述べられていました。阿頼耶識について、有漏位においては遍行の五のみが相応し、別境は存在しないことが説かれています。無漏位においては、遍行と別境のすべての心所と、善の十一の心所の合計二十一の心所が相応することが説かれています。(「然も第八識に総じて二の位有り。一には有漏の位。無記性に摂む。唯触等の五の法のみと相応す。但前に説きつる執受と処との境のみを縁ず。二には無漏の位。唯善性のみに摂む。二十一の心所と相応す。謂く遍行・別境の各々五と善の十一となり。・・・」(『選註』p55・『新導本』p112)
巻第四では、「然も此の意と倶なる心所は十八なり。謂く前の九の法(四惑と五遍行)と八の随煩悩とならびに別境の慧となり(即ち、我見なるが故に)。」(『選註』p95・『新導本』p182)別境の慧という意味は、対象(境)を了解するということ、簡択する働きです。我見の体が慧、即ち、簡び分ける働きをもつものということです。末那識は、四惑(我癡・我見・我慢・我愛)と五遍行と八随惑と別境の慧との合わせて十八の心所と相応すると説かれています。
巻第五では「未転依の位には、前に説く所の心所と相応す。已転依の位には、ただ二十一の心所とのみ倶起す。謂く、遍行と別境との各々の五と、善の十一とぞ。・・・」(『選註』p96・『新導本』p196)
阿頼耶識においては、有漏位(因位)には、別境は存在しないが、無漏位(果位)には五別境はすべて存在する。末那識については、已転依の位(因位の中の無漏の場合)には五別境すべてが存在すると説かれています。
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