唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変 所依門 (11) 因縁依 引証

2011-01-24 22:42:55 | 心の構造について

 第二能変 所依門(11) 因縁依 引証

 初は文証(教証)・後は理証を述べる。

 「種無くして巳に生ぜりと集論に説けるが故に。」(『論』第四・十三左)

 種子生現行の因果異時説を立てる難陀・最勝子が文証(教証)と理証を以て自説の正当性を論証する一段です。

 (種子がなく、すでに現行が生ずる、と『大乗阿毘達磨集論』巻二に説かれているからである。)

 『大乗阿毘達磨集論』巻二(大正31・668b)を以て因果異時説の教証としているのです。『述記』によりますと、

 「謂はく、無学最後の蘊なり。此の時に種は過去に入りぬ。過去は是れ無なり、當果生ぜず、現の種は巳に滅して唯現行の蘊のみ在ること有るを以て、種無くして巳に生ぜりと名づく。此の中に文略せり。『集論』の本には但、種無くして巳に生ぜり、の言有り、今釈家は取って以て証と為せり。『瑜伽』五十六に云く、或は有るは眼にして眼界に非ずといふも爾なり。此れは則ち教を引くなり。」(『述記』第四末・六十二左)

 最後蘊とは二乗の無学が無余依涅槃に入る直前の心で、集論に述べられている状況は、この直前の状況を示しているのです。この時には種子は無く(現行を生じさせた種子は過去のものとなり、その種子はすでに無いものである。)あるのは現行だけである、と難陀・最勝子は主張するのです。即ち、最後蘊を生起させた種子はすでに過去のものとして滅し、現行である最後蘊は現在に存在しているので、種子と現行の間には時の経過があることから因果異時説の教証とするのです。

 参考文献  『演秘』第四本・二十三左)

 「論に、種無くして巳に生ずと集論に説くゆえとは、対法(『雑集論』巻三・大正31・707c)を按ずるに云わく、無種巳生とは謂わく最後の蘊なりと。釈すらく、無種巳生とは是れ本論なり。謂わく最後の蘊とは是れ釈論なり。今難陀師は彼の論の意を取りて之れを以て証と為す。彼の意は云何ぞ。難陀釈して云わく、二乗の無学の無余に隣る心を最後の蘊と名く。此の蘊を生ずる種は巳に過去に入るを名けて無種と為す。所生の法は在るを名けて巳生と為す。既に因は巳滅にして果は現在なり。明らかに知りぬ、因果は時必ず同じからざることを。

 疏に、此の中に文略せりとは、彼の釈の最後の蘊の文を引かざる故に略と称するなり。

 疏に、今釈家は取りて以て証と為すとは、即ち難陀師を名けて釈家となす。彼の論を取りて以て証と為すなり。・・・」と。


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