『論』と『涅槃経』『対法論』等の説明の相異について会通する科段になります。
『論』の解釈
「慚」は「自と法との力に依って賢と善とを崇重する。・・・謂く、自と法とを尊し貴する増上に依って、賢と善とを崇重し、過悪を羞恥し、・・・」
「愧」は「世間の力に依って暴悪を軽拒する」
ものであると説かれているけれども、他の文献では、慚と愧を「自と他を顧みる」もの、即ち「慚」は自を顧みる、「愧」は他を顧みるものであると説かれているのは、『論』の説明と相違するのではないのかという問いかけです。それに対し護法の説明が、『述記』には、二通りの解釈をもって説かれています。
第一の解釈は、「自と法とを自と名づけ、世間を他と名づく」と。「自と法」を自、「世間」を他と名づける、ということに於いて、同義であると会通しています。
第二の解釈は、「自」とは、「賢善を崇重する」、「他」とは「暴悪を軽拒する」という意味であることにおいて、同義であると会通しています。
即ち、「賢善を崇重する」ことは「自」を顧みることであり、自を利益することである。また、「暴悪を軽拒する」ことは「他」を顧みることである。他を顧みることに於いて、暴悪が自分を損うことを「他」と名づけるのであると。
この護法の会通は、従来の解釈を踏襲しつつ、慚と愧の本質的な意味を鮮明にしているように思えます。この護法の解釈を通して『信巻』引用の『涅槃経』の意味を正してみるのも一考かなと思います。
「王、諸仏世尊常にこの言を説きたまわく、「二つの白法あり、よく衆生を救く。一つには慙、二つには愧なり。「慙」は自ら罪を作らず、「愧」は他を教えて作さしめず。「慙」は内に自ら羞恥す、「愧」は発露して人に向かう。「慙」は人に羞ず、「愧」は天に羞ず。これを「慙愧」と名づく。「無慙愧」は名づけて「人」とせず、名づけて「畜生」とす。慙愧あるがゆえに、すなわちよく父母・師長を恭敬す。慙愧あるがゆえに、父母・兄弟・姉妹あることを説く。(『真聖』p258)
横道にそれますが、「慙愧あるがゆえに、すなわちよく父母・師長を恭敬す。慙愧あるがゆえに、父母・兄弟・姉妹あることを説く。」と述べられていますが、慚愧心の背景に「信」の存在があるのですね。善の心所の順位は、「信・慚・愧・・・・」と、信を以て慚愧心が生れるのです。そして、慚愧心が、少欲知足・師長恭敬を生み、あらゆる人々と通じ合える世界を開いてくるのですね。
「信を以て」といいましたが、逆には、私たちは「恥の文化」をもって育てられてきました。もともと持っている、恥じる心が、教えに向かわしめるということにもなります。恥じる心が、信に向かわしめ、信が「賢善を崇重し、・・・暴悪を軽拒する」羞恥心を開き、そこに涅槃に向かう道が開顕されることになるのでしょうね。「不断煩悩」(煩悩を断ぜずして)は慚愧心ですね。機の深信です。なんともならん地獄一定の身であるという恥じる心が、涅槃に向かわしめる道を開いてくるのでしょう、それを「得涅槃」(涅槃を得)といわれている意義だと思います。 「慚と愧の心所」の説明は一応終了します。次回は「無貪等の三(善)根」について学びます。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます