唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 善の心所・不放逸について (1)

2013-08-12 22:23:03 | 心の構造について

 六は、不放逸の心所について述べられます。

 「不放逸とは、精進と三根との、所断修の於に防し修するを以て性と為し、放逸を対治し、一切の世・出世間の善事を成満するを以て業と為す。」(『論』第六・六右)

 「不放逸ノ心所ハ、罪ヲフセギ善ヲ修スル心ナリ。恒ニホシキママニ罪ヲ作ヲバ、放逸ト申。是ニ相違シテ、殊ニ罪ヲバ恐レ憚リ、功徳ヲバ造ラント思フ心ナリ。」(『二巻鈔』)

『二巻鈔』のは不放逸の心所は、「罪をふせぎ善を修する心なり」と説かれています、「ふせぎ」は犯さずということになるのでしょうね。どちらかというと、怠けているほうが楽ですからね、怠け心を放逸というのでしょう、放逸が因となれば、果は極苦ですね、ですから放逸すべからず、不放逸でなかればならないと教えているのでしょう。不放逸とは、怠けようとしない心、なのですね。

 面白いですね、僕はずっとですね、放逸の生活を送っていました、その場限りがよかったら、それでいいというものです。何故そんな生活を送っていたのかといいますと、生きるのもしんどいが死するのは嫌だ、という勝手気儘なんですね、そこまで「生きるということ」を考えていないんです。考えていないから、その場しのぎになるんですね、こういう生き方を放逸というのではないでしょうか。今も放逸の生活を送っていますがね。自分さえよかったらそれでいい、という思いは離れません。自分の思い通りになるように悪戦苦闘の毎日です、疑いようが有りません。まさしく放逸です。煩悩の心所、特に随煩悩に放逸が数えられますが、その前に不放逸が教えられていることには特に深い意味があるように思えます。

 不放逸とは、精進と三善根が断つ対象(断ずる対象=所断)である悪と、修むべき対象(所修)に対し、その悪を防ぎ、その善を修めることを以て性とする働きをもつ。不放逸は放逸を対治し、すべての善事を成満(成し遂げること。完成)することを以て業とする心所である。

 不放逸の心所から以下は、前の信等の八の心所である実法(その心所特有の種子から生じた存在)と著しく異なる点は、分位仮立法であるということになります。不放逸の心所は、精進と三善根の心所の四つの作用の上に仮に立てられたものであるということになります。   (つづく)


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