外門転(げもんてん)-内門転に対す。六識が外界の対象に対してはたらきを起こすこと。内門転は内面を認識する働きをいう。厳密には五識は、外門転の働きのみであることから「外門転の識」といわれ、第六意識は内と外の両方に向かって認識作用が働くので、「内外門転の識」といわれます。また第七末那識と第八阿頼耶識は内面にのみに向かって認識作用が働くので、「内門転の識」といわます。
有義の説は五識(第六意識も含む)そのものが同時に並び起こることを認めないため、そこには三性が並び立つことはないと主張しているのです。第一の根拠が「同外門転互相違故」(同じく外門に転ず、互いに相違えるが故に)になります。五識が外界を認識する時、同時に五識すべてが起こることは無いと主張します。一識の三性は善か不善か無記かのいずれかになりますから、五識相違ということは三性が並び立つことは無いということになると主張しているのです。
「五識は二刹那ありて相随って倶に生ずること非ず」、五識が外境を認識する時、一つの識のみが第一刹那に起こり、複数の識が同時に生起することはない。これは何を意味するかと云いますと、一つの識が生起する時は三性のいずれか一性になるわけです。善か不善か無記のいずれかなのです。同時に複数の識が生起することはない、ということは三性が並び立つことはないという根拠になるわけです。
つぎに『述記』の説明に耳を傾けますと、
「五識は生じ已って此れより無間に必ず意識を生ずる等と云えり」
と述べています。
一識が生じ已って次の刹那に他の識が生起するのではなく、その中に意識が介在するというのです。そして後に他の識が生起すると主張しています。
これが前五識に「三性倶ならず」(三性は並び立つことはない)という第一の根拠になります。
『演秘』の釈をみてみましょう。
「論有義六識三性不倶者。准瑜伽釈家総有三義。一云五識唯一刹那。五復不倶。二云雖一刹那五得倶起。三云五得倶起復多刹那。三皆不許五三性倶。有義疏中唯依 初難。今別解云。此中但依第二所説五性不倶。所以者何。且此論中上下無説五不倶生。又瑜伽等云。若起五識則七倶轉。如是等文諸師共了。如何説有五識不倶。又即此文説眼等識成善・染者必由意引。許五性倶六亦應爾。明知即許五識倶生。又 第二難率爾・等流眼等五識。或多或少言容 倶起。初師若其不許倶者。何故第二如是 立難 詳曰。既無明教別釋理通。而援教斥疏未見其可所以然者。瑜伽釋家三義許不。不許何引。許即何故而非疏言。順第 一故。又此論云。瑜伽等説轉識相應三性倶 起依多念等。此豈不是雙會三性及諸識 倶。若言唯會三性倶者。亦不應理。論云 性倶依多念會。多念會彼識倶何失。性及 識倶皆是彼論。會許不許。何乃儻耶。設若此文唯會三性。以性例識會亦無違。況復文 中義通性識。又論不言五識不倶證疏非者。此論何處言五識倶唯一刹那。取第二是。又論但云五由意引成乎善・染。何理即 證五識倶耶。五識不倶豈妨意引。若以文 中言五識故即證五倶。亦應五識無非倶 時。言五識故。次云第六通三性者。是就 他難。非許五倶破他第六。又後師難言容倶。顯其五識非恒時並。簡常倶起置容倶言。非顯前師許五倶起言容倶也。由斯疏義理無違也。」(「演秘』第四末・四十七左。大正43・907c)
(「『論』に、「有る義は六識は三性倶に非ず」とは、瑜伽の釈家に准ぜば、総じて三の義有り。一に云く、五識は唯一刹那なり、五は復倶ならず。二に云く(護法の正義)、一刹那なりと雖も五は倶起することを得。三に云く、五は倶起することを得とも復多刹那なりと。三(義)は皆五は三性と倶ということを許さず。有る義は疏の中には、唯初のみに依りて難ぜり。今別に解して云く、此の中には但第二の所説の五の性倶ならざるに依りていう。所以は何ん。且く此の論の中の上下に、五は倶生せずと説くこと無し。又瑜伽(『瑜伽論』巻五十一に「蔵識は一時に転識相応の三性と倶起す」)等に云く、若し五識を起こすときは則ち七と倶に転ずと、是の如き等の文をば諸師共に了せり。如何ぞ五識は倶ならざること有りと説かん。又即ち此の文に眼等の識が善・染を成ずることは必ず意の引に由ると説いて、五の性倶なりと許さば六も亦応に爾るべし。明らかに知りぬ、即ち五識倶生すと許すことを。又第二の難に、卒爾と等流との眼等の五識は或いは多にも或いは少にも倶起すべしと言う。」)
一旦、ここで区切ります。難陀等の主張では、六識は同じく外境を縁じ、三性は互いに相違するという不倶起説をとります。
第二の因を先に述べます。
「五識は必ず意識の導引するに由って倶生し、同境にして善染と成るが故に。」(『論』第五・十八左)
(五識は、必ず意識の導引(導引)によって、意識と倶に生じる。意識と五識は同じ認識対象をもち、三性の別も導引した意識の三性と同じものとなり、意識の三性の別に従って五識も善染となるのである。)
「論。五識必由至成善染故 述曰。第二因云。五識生時必由意識導引五識方五倶生。亦復同境方成善・染。先顯五識三性所由。後申倶難。即彼大論第三卷。説五識善染必意導生。」(『述記』第五本・六十右。大正43・419a)
(「述して曰く。第二の因に云く。五識の生ずる時は必ず意識の五識を導引するに由って方に五倶生す。亦復同境にして方に善染と成る。先には五識の三性の所由を顕す。後には倶なりという難を申ぶ。即ち大論の第三巻に、五識の善染は必ず意に導いて生じたることを説く。」)
「五識は必ず意識の導引するに由って倶生」する任運起の識であるので、善・染となるには必ず意識の導引に依るのである。従って意識の導引による五識(所引の五識)が一刹那の中に三性を倶起することを許すならば、導引した意識(能引の意識)も亦その時には三性に通ずるということになる。意識は善か不善か無記のいずれかである為に矛盾を起こします、正理に相違すると。よって、散位にあっては六識に三性は倶起することはないと主張しているわけです。
この問題については、第六意識に三性が倶起しない理由が次の科段において述べられます。多少前後しますが整理をしながら考えてみたいと思います。
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