異熟識について
「論に、一には異熟、即ち第八識ぞ。多く異熟性なるが故に。」
初能変は第八識で、異熟識と云われています。根本識ですね。一切が私の生命を成り立たせている識、命が私の所まで伝わってきたのには、何も無駄はなかったのであり、無駄がないという所に、また無分別の世界が開かれている。分別心ばかりの自分の中に、分別を転じて無分別智への転入の可能性が無限に広がっている世界を、異熟識と押さえられているのではないでしょうか。
「多異熟」、多く異熟性なるが故に、仏果以外は、第八識はすべて異熟性である。「第八識の体に総じて三位有り」と説かれています。本識の三相に於いて三位が立てられています。
自相 - 阿頼耶識。 「この識には具さに能蔵・所蔵・執蔵との義有り」と。蔵は蓄積される所。貯蔵所という意味で、すべての経験の種子が蓄積され、貯蔵され、熏習されている処ですね。能動的に、縁に触れれば引き出されてきます。能動的にいうことで、能蔵、蓄積されているということで、所蔵といいます。仏教の習いは、熏じるということです。多聞熏習という熟語がいわれますが、聞いたことが自他分別を超えて身体に染み込んでいく。「仏法は身に染み込んでくるんや」とは、訓覇先生の口癖でしたが、何も仏法だけが熏習するということではないですね。
毎日の生活そのものが身に染み込んでいるのですね。知らず知らずのうちにですね。どうでしょうか、幼少よりこの方、学習した時間はどれほどでしょうか。多くは自他分別を熏習しているのではないでしょうか。今の自分にとって何も無駄は無いというのは、自己責任なんですね。因は自由です、何をやってもいいんですが、果は自己が引き受けていかなければならない責任がある、ということです。これが異熟識ということになりますね。一切の経験が貯蔵されている所が阿頼耶識というわけです。
能蔵は持種。所蔵は受熏といいます。もう一つの意味は、執蔵です。蔵を執される。経験のすべてが執されていく、無くなったり、変化したりはしないんですが、これを「私」だと執着を起こすんです。本当は無常だと。「恒に転ずること暴流の如し」と。瀑布を見てわかりますが、あのような有様が自分である。命の働きは一瞬たりとも留まることはない、ということが阿頼耶識の意義です。経験のすべては自分なのですが、その自分を固定的に捉えて執着を起こしてしまうところに、迷いが生じてきます。その位を、我愛執蔵現行位と押さえられているのです。ここは、広説・初能変に於て詳細されますので、その折に詳しく見ていくことにします。
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