唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第五 三性分別門 (4) 別答 (三因をもって答す。その第一の因。)

2015-10-28 22:41:44 | 初能変 第五 三性分別門
 

 此の識は唯だ是れ無覆無記なり。異熟性なるが故に」。これは総答になりますが、別して無記の名を釈します。三つの理由を以て無覆無記であることの立証をしています。
 第一の因(理由)
 「異熟いい若し是れ善と染汚とならば、流転と還滅と成ずることを得ざるべし。」(『論』第三・五右)
 ここは異熟といいましても、阿頼耶識のことです。阿頼耶識が問われているところですので、有漏の場合は、ということになります。如来の第八識は無漏ですから唯だ善性になります。
 阿頼耶識が若し善であるか、染汚(不善・有覆無記)であるか、それがはっきりしていたらどうなるのか、という問いが先ず出されてきます。人間の本性が善か悪であるとしたらどうなるのかですね。
 答
 「流転と還滅と成ずることを得ざるべし。」(流転も還滅も成り立たなくなる。)
 もし善性か悪性ならば必ず異熟ではなくなる。何故ならば、
 「『摂論』第三巻の末に自ら解せり。(人・天の)善趣の(第八識)は既に善ならば、(不善の熏を受けざるが故に、發業潤生の)不善を生ぜざるべし。(唯善の熏のみを受けて)恒に善を生ずるが故に。即ち(苦・集の)流転なかるべし。(
 煩悩業の)集に由るが故に生死に流れ、苦に由るが故に生死に(輪)転ず。悪趣(の第八識)も翻じて亦然なり。(唯だ悪の熏のみを受くるが故に)既に恒に悪を生ぜば、(善の熏を受けざるが故に、善を生ぜざるが故に、滅・道の)還滅なかるべし。道(諦)に由るが故に還ず。滅に由るがゆえに(業煩悩を)滅す。」(『述起』第三末・三十一右)
 この『述起』の釈がすべてを物語っています。
 『成唯識論抄講』で太田師は(心に響くように)、
 「阿頼耶識が若し善と染汚とならば、善であるか染汚であるか、もしそれがはっきりしていたら、人間の本性は善である、或は悪であるとしたならどうなるか。「流転と還滅と成ずることを得ざるべし。」流転は迷いです。もし人間が、基本的に善であるならば迷いはあり得ない。もしも人間の本性が善でありますならば、現実的に生死流転、迷っていくということはなくなってもいいはずですね。もし人間が染汚、汚れておりましたら還滅がなくなるんです。還滅は滅に還る、滅は涅槃ですから、心の安らぎの世界、静かな悟りの世界に還ってくる、流転は生死に迷う。現実の私達は生死に流転して迷っているか、悟りの方向に向かっているか、そういう二つの動きをしていくわけですが、その時にもしも私共が善であれば生死に迷うことはない。悪であれば修行をして悟りをひらくことはありえない、こういうことになりますね。ですから阿頼耶識は善でも悪でもないというんです。我々は現実に生死流転することもあるではないか、現実に悟りに近ずいていく、仏様にお会いして教えを聞くことができる、そういうことがあるじゃないか。ですから人間は真っ白なんです。無記なんです。無記だからある時はさまようんです。無記だからある時は悟るんです。それが理由です。」と語ってくださいます。
 流転は惑・業・苦の流転輪廻で、流転の因は惑から始まります。惑とは、我を認め執すること、我執です。この我執から煩悩・随煩悩が流れ出します。ここに自尊損他という自他分別が起こってきます。自分にとって、という枠で物事を取り決めていきますから、自分にとって利益になることは楽、その反対は苦ですが、楽といえども、いつでも苦に変わる性質のものですから、自分という枠の中では、苦・楽・捨はすべて苦なのです。
 親鸞聖人は、摂取とは「にぐるをおわえとる」と左訓されておられますが、今日のラインのやり取りを記載しますと、
 「過去を隠そうとすればするほど自分自身に縛られるのですかね。」
 「にげれば追いかけてくる。受け止めるしかない。」
 「なるほど」
 「なんでかわかるか、それは、真実に触れているからなんや。逃げたらあかん!というてんねん。過去を悔いて取り戻すことができるんやったら、いくらでも悔いたらいい。そうならんのや」
 つまり、道理に反すれば苦が必然なんですね。必然が「何故」というといを生み出し、道を求めるエネルギーになるわけです。このエネルギーは如来から頂いたものなんです。私が生み出すものは苦しかないわけですが、苦を縁として浄を欣うのは如来の働きなんですね。
 いうなれば、如来と衆生の分限が違うのですが、如来と衆生が出会えるのは無覆無記性においてなんです。現実の私の姿を見透かして、如来に出会えと催促されているように思えました。
 

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